それさく文庫書影

歴史小説は今、『歴史離れ』のほうがやばいんではないか②

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 すっかりご無沙汰しちゃいましたが、前回の続きなんだぜ。

 前回は「歴史離れのほうが歴史其儘よりよほどやばいんじゃない?」というお話でした。

 しかしながら、前回エントリで、わたしが説明していない事実があります。実は、「歴史離れ」系歴史創作は、今でもめちゃくちゃ隆盛なのです。

 ことを小説、特に大衆文芸から影響を受けた狭義の歴史小説に含めてしまうから視野狭窄に陥るんであって、深呼吸をして辺りを見渡してみると、案外「歴史離れ」の創作物が世にあふれていることに気づかされます。
 たとえばゲーム。たとえば映画。たとえば漫画。小説の世界でも、ライトノベルやキャラクター文芸にまで視野を広げれば、実は「歴史離れ」系創作物で溢れ返っています。
 逆に言えば、大衆文芸を先祖とする狭義の歴史小説(わたしが立っている場ですね)だけが、新時代の「歴史離れ」の作法を確立していない、と考えることもできるのではないかと。

 わたしはどうしたって大衆文芸系歴史小説の場に身を置いている人間なので、これから、その文脈をあるところでは受け継ぎ、あるところでは無視しながら展開させていかなくてはならない立場です。これは別にわたしが斯界を背負って立つとか斯界の方向性を決めるとかいう話ではなく、ある場に身を置く以上はその場への貢献が求められるというただそれだけの話です(もっというと、何かを背負って立ちたくないから作家という自分の身命くらいにしか気を払わなくていい稼業についたともいえるわけで)。

 とはいっても、実はわたしは「エンターテイメント」に対して疑義を抱いている人間です。確か以前noteでも書いた気がしますし、ところどころで話していることなので繰り返しになっちゃうかもしれませんが、エンターテイメントの持つ潮汐力みたいなものに作者として今一つなじめないのです(念のため書いておくと、エンターテイメントを突き詰めておられるクリエイターさんに喧嘩を売っているわけではありません。谷津がエンタメを解せないというだけの話です)。
 前回noteでネオ歴史小説について「大衆文芸系歴史小説に最新のエンターテイメント文法を導入したもの」という説明をちょろっとしましたが、つまりわたしはネオ歴史小説の深奥を理解できないということになりそうです。
 そんなわたしは新たな「文法」を見つけなければならぬのだなあ、と少々嘆息気味の日々なのであります。

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