奇説無惨絵条々書影

『奇説無惨絵条々』の世界最終回、「あの絵」&権力の行使の話

 『奇説無惨絵条々』(文藝春秋)、各書店様、WEB書店様などで好評発売中です。

『奇説無惨絵条々』の冒頭部分、試し読み公開中です!

 二か月余りにわたって繰り広げられました「奇説無惨絵条々の世界」も最終回です。というわけで、今回は『奇説無惨絵条々』に関し、語り残していることをいくつかお話しできればと思います。

勧進帳の絵の話
 本作、厳密には絵師ものではないのですが、一応落合芳幾が出てくることもありますし、最後に落合芳幾の絵も出てくるので、一応その解説というか説明をさせていただこうかな、と思います。
 さて、今回わたしが取り上げた絵は具足屋福田熊次郎刊行の『歌舞伎十八番之内勧進帳』です。

 (著作権やら何やらが面倒なので、検索結果を示す)
 明治二十三年の九世団十郎による「勧進帳」は豊原国周も描いています。見比べてみると、二人の違いなどもあって大変面白いのですが本筋に関係ないので割愛。
 また、実物の九世団十郎さんの面長で神経質そうな顔立ちに似せながらも(明治の人なので九世団十郎さんの顔は写真に納まっています)浮世絵っぽさを残している、まさに芳幾、と快哉を叫びたくなる絵なのです。
 芳幾のくだりのさいにご説明したかと思いますが、明治二十三年の芳幾は引っ越しをしたりして心機一転を図っている節があります。この年に刊行された三枚綴りの浮世絵、さらにあまり例のない芳幾の『蕙阿弥』号(芳幾は「一蕙斎芳幾」などの号が多い)などなど、この絵を取り巻く環境はいろいろと意味深なのです。
 明治二十三年に芳幾に何があったのか。そのヒントになるんじゃないかなあと思い、この浮世絵を取り上げさせていただいた次第です。小説の結構としても本画を用いたことがいいスパイスになったと思っております。どういう風に用いたかと言えば……。本編をご覧ください!

権力の行使について
 本書を読んでくださった方は頷いていただけると思いますが、実は本作、権力批判というか、権力への不信感を強く滲ませている小説です。こうしたものを書いている身としては、当然考えなくてはならないことが出てきます。
 『権力批判といいつつ、自分だってまあまあな権力やん』問題です。
 今でこそ状況は変わっているとはいえ、「本を出すことができる」のは絶大な権力です。出版社の皆様のご助力で『よいもの』というラベリングを施していただき全国の書店さんやWEB書店さんなどに陳列され、買われていく。出版流通システムという信頼性の高いシステムによって保障され、わたしたち作家の言説はある程度の権力をまとわされることになっているのです。
 わかりづらい?
 わたしのことを例に出すとわかりやすいでしょう。わたしはデビューまで「小説家になろう」の底辺作家でした。が、デビューしてから少なくとも一作辺り数千から一万人くらいの方には小説を読んでいただけるようになりました。「賞を取ってデビューした」「デビューしてから本を出し続けている」ことでわたしにある種の「権力」(書いた小説に値札が付いたり、講演などでお金をもらったりなどなど)が付与されたといえるわけです。
 とはいえ、わたしが今有している「権力」は「小説を書くこと」に強く紐づけされたものであって、「小説を書く」こと以外に行使していい力ではない、というのが今のわたしの考えです。
 力は大変に恐ろしいものです。白いものを黒に変えることもできますし、無理を理に変えることも可能です。
 だからこそ、わたしはある種の慎みをもって活動してゆきたいなあと思っている今日この頃です。具体的に申し上げるなら、己の有している権力はすべて小説の周辺で用いていこう、ということです。
(念のため書いておきますが、以上のスタンスはわたしの現状のマニュフェストであって、他人がどうこうという話ではありません)


 はい、というわけで、都合十六回、二ヶ月にわたり展開されました「奇説無惨絵条々の世界」もこれでおしまいです。とはいえ、まだまだ本書は好評発売中です。ぜひともみなさま、お買い求めいただけますと嬉しいです!

 谷津上期の代表作、ぜひとも手に取ってくださいませ。

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