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13年ぶりのひめゆり平和祈念資料館で思うこと-慰霊の日に寄せて-

6月23日、沖縄では役所や学校が休みになる。私の働いている学童もお休みで、今、自宅でラジオを聴きながらこれを書いている。

「慰霊の日」ー沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。

沖縄では県の記念日に制定されており、戦没者に追悼を捧げ平和を祈る特別な日である。

しかし、私の持っているスケジュール帳の「6月23日」の欄には何も書かれていない。沖縄タイムスの調査では、全国の75.5%が「慰霊の日」について知らなかったと回答したそうだ。かく言う私も、こんなに沖縄によく足を運んでいたのに、「慰霊の日」を意識するようになったのはこちらに住んでからである。

戦後を生きる、沖縄に心を寄せる一人として、今考えることを周りの人にシェアしたいと思って、久しぶりにnoteを開いた。

先日、13年ぶりに「ひめゆり平和祈念資料館」へ足を運んだ。今日は、そのときのことに感じたこと・考えたことを書くことにします。

13年ぶりの「ひめゆり平和祈念資料館」へ

先週の土曜日に「ひめゆり平和祈念資料館」へ足を運んだのは、RBCアナウンサーによる「平和朗読会」に参加するためだった。最近ハマっている沖縄のラジオ番組で朗読会のことを知って申し込んだら、当選したのだ。

朗読されたのは、もとひめゆり学徒の方の手記のほかにも、遺族であるお父様の葬いの言葉や、学徒たちを陸軍病院へ引率した先生の手記も。

「ひめゆり学徒隊」:沖縄戦に看護要員として動員された女子学徒隊の一つ。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教師計240人が負傷兵の治療や遺体埋葬などに当たり、日本軍とともに沖縄本島南部に追い詰められて136人が亡くなった。

アナウンサーのみなさんの涙をこらえながらの朗読は、さまざまな場面が目に浮かび、感情が心に流れ込んで、どうしようもなく泣いてしまった。そのあと、この4月にリニューアルしたばかりだという館内の資料をじっくり見学した。

ひめゆり平和祈念資料館に行ったのは、約10年前に中学校の修学旅行で訪れてから2度め。何度も沖縄には来ていて平和祈念資料館にも行けたはずなのに、ずいぶんとご無沙汰してしまっていた。

中学生で平和祈念資料館を訪れたときは、資料を見学し、語り部さんのお話も聞かせていただいた。沖縄戦のあまりの凄惨さに震え、当時15歳だった自分と同年代だったひめゆり学徒たちの過酷な体験に、目を覆いたくなる気持ちだった。戦争の惨さと平和の尊さが、深く胸に刻まれた。

資料館について印象に残っていたのは、亡くなった人たちの写真が並び、静かに音楽の流れる薄暗い展示室。正直なところ、当時の私には受け止めきれないくらいに怖かった。その印象があったから、なかなか再訪することができなかったのかもしれない。

あれから13年。28歳になった今、沖縄戦を考える視点が自分のなかに増えていることに気が付いた。

なぜ、こうなってしまったのだろう

資料館を見学しながら何度も思ったのは、「なぜ、こうなってしまったのだろう」ということ。

沖縄戦は民間人を巻き込んだ地上戦で、女子どもも関係なく殺され、味方であるはずの日本兵にも迫害された。

6月23日は牛島満司令官の自決した日で、組織的な戦争は終了したものの、そのあとにも「決して敵に捕まってはいけない」「最後まで戦え」という教えのもと、本当にたくさんの人が逃げ惑い、撃たれたり自害したりして亡くなったという。投降していれば、助かっていた命がたくさんあったはずなのに。

そして、沖縄戦ではすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されたという狂気。女子学徒は15歳から19歳、男子学徒は14歳から19歳の少年少女を動員するというその決定は、軍から県へ直接打診があって決まり、県から各学校へと伝達されたという。そこに、法的根拠や措置はなかった。

資料館にある年表では、1944年10月の那覇への大空襲の際に学校が休校になり、離島出身の生徒たちは一時帰されたという。しかしその後電報で学校へと呼び戻され、ひめゆり学徒隊の結成・戦場への動員となったと書かれていた。送り出した親は、どんな気持ちだっただろう。娘が亡くなって、「なぜあのとき学校へ帰してしまったのか」とずっと後悔していたのではないだろうか。

なぜ、こうなってしまったのか。なぜ、大人が子どもたちを戦争へと送り出すことになってしまったのか。命が何より大事であると、教えることができなかったのか。

そこには政治・構造的な背景が複雑に絡まりあっていて、なかには現代の社会へとつながるものもある。自分ごととして、問いを持ち続けないといけないと思う。

女の子たちの日常が奪われたということ

ひめゆり学徒たちの通う学校は県内でも有名な女子の進学校として、北部や離島からもたくさんの生徒が進学してきたという。まじめで明るい、なんでも一生懸命取り組む校風であったそうだ。

資料館には、戦前の学徒たちの生き生きした写真も展示されていた。友達と体を寄せ合って笑う写真からは、今にも明るい笑い声が聞こえてきそうだった。

中高一貫の女子校で育った自分にとって、その姿にはどこか重ねるものがあった。大人になった今だからこそ、女子中高生だった頃の日常がどれほど大切なものであったかがよくわかるし、あのころの思い出や友情や学びが今の自分を支えていると思う。それらがすべて奪われてしまったと想像するにつけ、同世代だったころの13年前とはまた違う視点から、中学生が動員されたことの意味をより重く感じているような気がする。

そしてそのように少女たちのことを思うとき、周囲にいた大人たちの気持ちをまた想像してしまう。

朗読で読まれた遺族の父親の手記では、繰り返し「おまえを学校へやった私が、間違っていた」と悔いていた。先生の手記では、一人ひとりの生徒への思いと、悲しみに暮れる遺族の保護者を前にした自責の念があふれていた。聴きながら泣けて仕方がなかった。

奪われたのは、たくさんの人たちから慈しまれ成長を楽しみにされる、大事な大事な命だった。

今、思うこと

中学生のころ、戦争と平和は切り離された対局にあるものだと思っていた。戦争の惨さを知り、今が平和で本当によかったと、思っていた。

今は「平和は自分たちがまもり、つくらなければいけない」という思いが強い。

戦争の痛みを想像することと、足元の平和に目を向けることは、地続きにある。

その両方の意味での「祈り」と「覚悟」を持ち、知ることと問うことを続けていきたいと思う。

最後に

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ひめゆり平和祈念資料館は、民間で経営されてきた施設です。(私もつい最近まで知りませんでした…!)コロナの影響で入館者が減り、経営危機にあるとのこと。現在、寄付を募っています。

また、この記事では、沖縄戦や学徒動員の具体的なエピソードについては触れていません。何があったのか知りたい、という方は、リンクを開いてみてください。




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