#小説『あこがれと思い込みと妄想』-16

昼休みにはまだチョット時間があったが、学食は既に多くの学生で席が埋まっていた。騒がしいという訳では無かったが活気のある雰囲気を味わうのも久しぶりで、今はこの人ごみの雰囲気が逆に宏次の心を落ち着けてくれた。四百円の定食を取って席を探していたら、隣の研究室の斎藤が一人でいるのを見つけたのでそこに座ることにした。
「よう!久しぶりだな。何食ってんだよ!」と宏次が声を掛けながら座ると、斎藤は、
「うどん!うどんだよ!見りゃ分かんだろ!(笑)」と言いながら最後の一口をズルズルと音を立てて啜っていた。そして汁を最後の一滴まで飲み終えて丼を机にトンと置くと、手で口を拭きながら
「いいとこで会ったな!お前、この間の麻雀の負けまだ貰ってないぜ!」と言い出した。
“しまった!こんなとこ座んなきゃよかった!”と思ってももう遅い。宏次はやれやれと思いながら「ほらよ!」と苦笑いをして財布から二千円を出して斎藤に渡した。
   それから斎藤の研究室の事や、機械科の連中の就職状況などの情報交換をしばらくしていたら、少し離れたところに春木彰子が誰かと座っているのを見つけた。それに気づいた宏次は斎藤と話をしながらも視線は彰子の方に向けていた。対面に座っているのは誰だろうかと探るように見た。そこには宏次が知らない男子学生が座っていた。両肩をキュッと突き上げて背中を少し丸めて足を延ばすように座っている彰子の姿は何だか楽しそうに見えた。夢中になってその男と何かを話していた。“新しい彼氏かな?”そんなことを頭の片隅で考えていた。宏次はこんな光景をもう数カ月前にみていたらショックだったろうなと思いながら彰子の笑顔を見つめていたが、彼女はこっちに気が付く事も無く楽しそうにその男と話をしていた。
 学食を出て斎藤と別れてから宏次はキャンパスを一人で歩いた。特に何か当てがあるわけでもなかったが研究室に戻ってもどうせ今は集中できないし、たまにはダラけてもいいだろうという気分で散歩をすることにした。初夏の日差しが地面を照り返して眩しかったが、風が心地よく何となく気分がよかった。一人で歩きながら考え事をすると自分の思考が研ぎ澄まされて考え事がまとまるという事は経験的に知っていたので、宏次は散歩が好きだった。取り留めのないことをあれやこれやと考えているうちに、さっき学食で見かけた彰子の事をふと思い出した。
 去年の今頃、彰子と付き合い始めた時の記憶がよみがえる。合コンで知り合った彰子に対してしどろもどろしながら宏次の方から告白をして受け入れてもらった。「よ、よかったら僕と付き合ってくれませんか・・」と消え入るように告白した記憶はまだ懐かしい思い出とは言い難く、出来る事なら消し去ってしまいたいとすら思った。片や彰子と付き合い始めた頃の感情も忘れられないものがあると感じていた。好きになった彰子のあらゆる仕草が素敵に見えて、宏次の目の前に現れる日常世界が輝くように思えた。あの時の宏次の中では全ての価値観の中心に彰子の存在があり、彼女が宏次の価値観を認めてくれているという感じがフワフワと宏次を包んでくれていた。女性に恋をするという感情は最初はほのかな恋心として心の中にあったものが徐々にガラスの結晶のように心の中で大きな愛に育っていき、それが生活全体に潤いと活力を与えてくれる事も初めて知った。彼女がこの世で一番の美女ではないという事はよく分かっていたのだが、彼女が自分の全てを受け入れてくれ、そして宏次自身もそんな彼女をとてもいとおしく思ったという事は事実だったはずだ。宏次は恋愛という事に関して言葉として掴み切れないものがまだあり、頭の中でしかイメージがつかないのだが、あの当時の彰子に対する“かけがいののなさ”が宏次の心の軸になっていたと思い返していた。それだけにフラれた時の反動が大きかったという事も今なら思い返せる気がした。宏次は彰子と別れてからしばらくは自分の心の中の芯を抜き取られたような気分になったという事をあの時は痛いほど感じていた。自分と社会との関係性がよく分からなくなったという事が失恋によるものだという事がその当時は理解が出来なかったが今ならわかる気がした。何より失恋して一番驚いたのは照れ屋でどちらかと言えば大人しいい自分にあれほどの情熱と欲望があったという事に初めて気が付いた事だった。彰子にフラれた後も普通を装って日常の生活をしていたのだが、その時まで興味のあった事にも価値を感じなくなった事が実は失恋が原因だったのだろうかと歩きながら考えてみたりした。

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