#エッセイ 『生きる意味と幸せ』

    普通に生活をしていれば誰でもやはり幸せや充実感や達成感などを求めてそれに向かってその人なりの生活態度をとっていると思います。中には気持ちだけでそれに追いつかない生活をする人もいれば、また諦めて自堕落な生活を送っているなんて人もいるかもしれませんが、基本みんなその人なりの幸せを望んでいるという事は一緒なんじゃないかと思います。結論を先に言えば幸せを噛みしめる事が生きる意味といってもいいのではないかと思います。じゃあ、この幸せの正体って何だろうかね・・?その謎を考えてみたいと思います。話が漠然としてしまう恐れがあるので、まずはそれぞれの人の置かれた各人の持つ人生の前提の違いから考えてみたいと思いますので、チョット長いですが話の前置きからお付き合いください。

   そもそも人が産み落とされるのは、時代・国・地域・家庭など全てにおいて与えられる条件が異なります。勿論、持って生まれた体の健康状態なんかも人それぞれです。それは誰にとっても変えることのできない初期条件であり、そこを起点にして自分の人生をスタートさせないといけないという事は、誰にとってもある意味残酷な一面を持つ可能性を秘めていますが、日本人として考えるならば、多くの場合はそれなりに平等な事になっていると思います。そして一度この世に生まれれば自分が育つ国の文化や生活圏の中の習慣、または親や学校から受ける教育や、つき合う友達や周りの人達の物の考え方などから影響を受け、成長と共に次第に自らで自分の経験を基に自分なりの思想を育てて、それぞれの価値観が出来上がります。そんな自分なりの思想や価値観を持った個人が“自分の人生がなんか上手いってないな”とか、“なんか不運が続いて不幸だな”とか、“思ったように歯車がかみ合わないな”などと思う時には、だんだんと元気がなくなって、生きる意味を見失っていたりするのではないでしょうか。そんなタイミングで、豊かな家庭に生まれて愛情いっぱいに育てられた人が何かで成功していたり、幸せに過ごしているなんていう話を見たり聞いたりすれば嫉妬をすることもあるかもしれないし、また自分の出自を嘆くなんてこともあるかもしれないですよね。また、そんなことを感じないような生活を送れているならば、その人はある意味満足のいく幸せな人生を送れている瞬間なのだと思います。それぞれの人が幸せを求めるという感覚は結構無意識であり、目の前の出来事に対して“自分にとって有利な事”と思えることに対して行動をしていると思います。その有利な事の中身はお金や社会的地位であったり、または健康や交友関係の華やかさであったりと、具体的には人それぞれ色々あると思われます。同じ個人であっても置かれた状況によって欲するものは変ります。例えば戦火の中で生きる人々にとっては、お腹を満たす食料を手に入れる事や安心して寝られる場所を確保するという最低限の安全を求める事が幸せの基準になるでしょう。でも、これは現代の日本では考えにくい例えかもしれませが・・。社会全体が安定して身の安全が当たり前だからこそ、その他ほかの欲望が出てくるのだと思います。

   ではここからもう一回改めて考えみてほしいのですが、じゃあその“幸せ”の在り方とはどんな感じなのでしょうか?基本的には喜びも悲しみ全て自分の心で感じるものだと思います。その“感じる個人”が今までの人生で積み上げてきた思考によってもたらされる精神的作用が幸せや悲しさを感じさせるのでしょう。ではここから少し踏み込んでその“幸せ”の感じ方について考えたいと思います。それぞれの人が感じる喜びや幸せの具体的な内容はさまざまですがその感じるプロセスには共通するものがあると僕は思っています。おそらくは次の三つの事に集約できると思いますので一つずつ僕なりに丁寧に考えていきたいと思います。

一つ目は、力の限りを出す心地よさ。
   例え易いことでいうなら、学校での体育の授業なんかは分かりやすいでしょう。この場合、運動の上手い下手は関係ありません。体育の授業でクラスメートと力一杯走ったり飛んだりすれば、たったの一時間でも体の疲れとは別にある種の清々しさがあると思います。これは力の限りを出したから感じる人間の本能としての快感だと思います。精一杯運動をした後の爽快感は僕の人生でも楽しい記憶として残っています。だけどそれは別に、スポーツなどの運動でなくても将棋や学問や会社の仕事だって何だってかまわないはずです。本当に力の限りを込めて頑張った後はたとえ失敗しても何とも言えない充実感は味わえると思います。力の限りを出した中で充実感を味わう事はやはり人生の醍醐味でそれは幸せと同義的な事と思います。夏の高校の野球甲子園で試合に負けた高校生の涙を流す姿にはまさにそんな感覚がにじみ出ていて、多くの人は野球の試合を観戦する中でそれを感じ取って感動しているのではないでしょうか。勿論自分が力を込めてやった事に自分の願った成果がついてくれば、それはまたこの上なく良いとは思いますけどね。この場合、力を込めて何かに没頭しても、その結果にだけしか視点が向かわないという人も見かけます。そうすると最後に結果が出ないがために心の快が掴めないのは少しもったいないと思ってしまいます。往々にして世間の評価とは最終結果が全てと考えられがちですからね。でも実はその最終結果に向かうまでのプロセスをも楽しむ、ないし充実して過ごすという事もとても大切な事と思います。そこを意識的に感じ取ることが出来ないと、今まで時間を費やしてしてきたことが全て未意味な事として感じられ、虚無感に駆られてしまいますので・・・。
    私の生活の中で考えると、会社の仕事でちょっとした充実感を感じることがあります。自分の職務の中でこなして当たり前と周りから思われる仕事でも、自分なりに一生懸命頑張ってやっていたりします。夜になって電車に乗りながら疲れを感じるのですが、心のどこかで疲れを感じつつもどことなくやりこなした達成感というか静かなる高揚感を感じながら帰宅することもあります。それはやっぱり好きでやっている訳ではない事にでも力の限りを出して感じた事だと思っています。

二つ目は、自分の行いが他者の為になったと自分で思える事
    ここでも分かり易い例でいうなら、電車に乗って座っている時に目の前に立ったお年寄りに席を譲った経験はないでしょうか。その時にその席を譲ったお年寄りに『ありがとうございます』という事を言われたら思わずちょっと嬉しいと感じませんか?もちろん席を譲る時はお礼を期待しているという事は無いと思いますが、たとえ小さなことでも知らない人から感謝をされたり喜ばれたりすればやっぱり嬉しいと思われます。それが知っている人からなおさらですよね。実は宗教はそれを昔から分かっていたようで、キリスト教では『他者の為に生きよ』と教義の中に入れていたりしますよね。
    これについて私が生活の中で感じとった例を紹介させていただきます。これは何年も前にNHKの番組で見た内容です。戦時中広島で被爆をした高齢の女性が戦後70年近く経った現代で原爆被害の語り部として広島市内で講演活動をしているという内容でした。その女性は全身に癌があり体調がすぐれないのですが、後世に被爆当時の廃墟になった広島の苦しみと、原爆で亡くなっていった人々への思いを語ることにより平和の大切さを伝えることで社会に貢献する活動をしていました。たとえ自身の寿命が尽きかかっていても後世に“平和の大切さ”という共有すべき思いを若い人々に語り継ぐ、という行為をすることによって社会(他者)に貢献するという事が彼女の生きる原動力になっているなと思ったのを記憶しています。やはり人は自分自身のみを満足させるだけでは喜びは充分ではないのですね。他者への貢献とその他者からの喜びと感謝を無言の形であっても受け取れる事はある意味ではお金に換える事の出来ない喜びであり、そしてそれはイコールとして幸せの一つでもあると思いますね。それもまた生きる意味を強く与えてくれるのだと思います。時には相手がその場で分かってくれていなくても、自分の方でこれが相手の為になると思えている状態であるならば同じように幸せは感じられるのではないでしょうか。

三つ目は、自分が他人に受け入れられているという事
    これは比較的に分かりやすいと思うのですが、自分の存在が所属する組織(学校や職場など、もちろん家庭でも)や集団の中で受け入れられないとやはり人は心を痛めます。現代社会で問題にもなっていますがいわゆるイジメやパワハラなんかはこれに直結している問題ですよね。昨日まで笑顔で話していた人にあからさまに無視をされたりすれば誰でも心を痛めますよね。どこに行っても受け入れられないとなれば、やっぱり誰しもが寂しさで生きる気力を失われていきます。(これらについてはまた別に考えていかないといけないかな、と思っています。)やはり人と一緒に喜んで一緒に悲しんで一緒に笑える人生は理屈抜きに素敵ですよね。
   もしこの件で何かの例えとして出すなら、最近テレビで観たアメリカの映画『スタンド・バイ・ミー』なんかがよくこのことを表現していると思いました。冒険にでた少年たちはそれぞれに学校や家庭の親子間での人間関係から来る悩みをかかえています。彼らは冒険に向かう中で歩きながらポツリポツリとお互いの悩みを語り合います。それを聞いた方の少年は何も言わずに相手の肩に手を廻して頭を寄せ合うシーンはとても印象的です。今の自分では何もしてあげられないけど、気持はちゃんと理解しているという事を示す行為として無言で寄り添うのですね。その行為では決して何も解決はしていないのですが、人に理解し受け入れられていう瞬間をよく表しているとても素敵なシーンです。

    以上より人は自分の人生で具体的な何かの夢や目標をかなえようとする過程で、もしくは出した結果で、大筋この三つの事が心の中でいろいろなバランスを取りながら作用することによりそれぞれの人生で生きている意味と喜びを感じているのだと思います。人はみなその感性を無意識に使いながら今、目の前に現れる事象ですら快と不快に分けてその都度の良さである快を選択しながら生活をしています。それによって生きる意味を喜びと幸福感として無意識に感じるという形で享受しているのではないかと思います。またそれは瞬間的な判断だけでなく、時には農業が秋の収穫を楽しみにして何カ月も稲の世話をする様に、時間を手段に変えて現在の我慢を強いられる事もあるでしょう。そしてまた物事の良し悪しは各個人の中ではキレイに分けられないことも結構あって、その都度の自分の心の中で目の前の事象を快と不快の天秤に掛けつつ『こちらの方がまだマシだな』と曖昧な判断している物事もあるでしょう。曖昧なまま少しでもいい方を選びながら積み上げて出来上がったものが、自分の当初の理想と遠くかけ離れてしまっているというちょっとした矛盾を抱える事で新たに悩むということだってあるかもしれません。社会人として会社に勤めているとこんな感覚に陥りやすいのではないでしょうか。その事に自ら気ついた時にはそこからまた仕切りなおしていくことが必要になるなんてこともありうるかもしれないですね。それに対する実際の行動としては転職だったりするのではないでしょうか?また青年時代には目標した事に失敗をして挫折を感じ、その瞬間に生きる意味を見失う人も結構いると思います。そして大人でも、もしかしたらこのように今の状態がかつてぼんやりと理想と思っていた状態とかけ離れていると思った瞬間に、生きている事の意味を見出せなくなっていたりすることもあるかもしれませんね。これも経験している人がいると思うのですが、何か具体的な事を目指して始めた行為を続けているうちに、途中で自分の感性に合う“快”を求めるために当初の目標を切り替えながら続けるという事もあるかもしれませんよね。ですが人は常に何がしかの“幸せ”(=快もしくは良さ)を求めている事には変わりありません。そして厄介な事として一つ注意したいのは、人は結果でしか判断されない事が多いです。そうすると、途中の過程で感じられる快と最後に出した結果が結び付かなくて苦しむこともあるかと思います(これは上にも書きましたが)。私個人の経験から考えると、世間に晒された自分の姿が、自分の望んでいる価値と異なってしまうのは辛い一面がありますよね。
   これらの事を踏まえていうなら、具体的な幸せの形は人それぞれで具体的な事象としての正解は無いといってもいいと思えてならないのです。だからこそ、それぞれの人がそれぞれの生活の中での活動で感じる心の快(良さ)をかみしめるという表現がイコール幸せなんじゃないかな、という内容が私の考えです。人は心の中を常に快で満たすために生きている、これが生きている意味の一つの柱だと私には思えてなりません。ドラマや映画の中で『幸せは掴みに行くのではなくて、幸せは心で感じるものなんだよ』というセリフは本当に心に響きますよね。私たちは生きている間に無意識のうちにその心の活動を通して一生を過ごしているのではないかと思います。





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