#エッセイ『懐かしい商店街』
サラリーマン生活をしていると時々地方への出張があります。その行先は仕事の内容によって様々なのですが、電車を降りて駅の改札を出たその瞬間にその土地の雰囲気が伝わり、何とも言えず少しワクワクしたりします。それでも仕事で来ているわけですから思いのままに街を散策するという事は出来ないのですが、お客さんとの打ち合わせを終えて少しでも時間があれば時には駅の周りを散策したりすることもあります。
そこで気になるのが商店街です。例えば大阪の難波千日前や京都の錦小路通、または仙台の一番街などの商店街は大きな町の中心的な通りでもあり、多くの通行人と活気のあるお店で活気があり、その賑やかさが何とも言えずいいもんだと思います。これらの商店街はその都市の目抜き通りで観光地も兼ねているという事情があるのでその辺が賑やかなのは理解が出来ます。問題は他の所です。週末を跨いで地方に出張で行くときには土日の休日をその出張先で過ごす事があります。そんな時は当てもなくフラフラと思いつくままそこの土地を散策したりします。観光名所もいいのですが、私が好きな行動パターンは、まず電車にのって適当に降りた駅周辺の市街地をあちこち歩いてその土地の家並み何かを見て楽しむことです。新しい家や古い家を外から眺める事は何とも言えず楽しいのです。自分ではとても買えない様な大きくてきれいな家を見るとそれはそれで羨ましく“いや~俺もこんな家に住めたらな~”なんてついつい思い、そんな家の駐車場にはまた高そうな車が2,3台あったりします。そんなのを見ると“ほほ~車も高そうだ・・・”とそんな事にまで思わず関心してしまいます。こんな事を書くと泥棒が下見をしている様に思われるかもしれませんが、これは私にとっての純粋な楽しみなのです。また古い家を見ると、そこには何とも言い知れぬ時間の流れを感じ、その昔はどんな感じだったのだろうかとノスタルジックな気分に浸るのです。板張りの外壁で、風呂場やトイレから上に伸びる煙突なんかがあると、おそらくは昭和40年代くらいに建てた家なのかな、ここに住んでいる人はどんな人生を送って来たのかと思わず想像してしまいます。また、明らかに雑草がぼうぼうに生えて窓のガラスが割れているような廃屋などを見つけると、最後にはどんな人が住んでいたのだろうか、そもそもこの家が新築で建った時には、どんな人が家主でどんな風に喜んでいたのだろうかと想像し、切ない気持ちになります。
そうやって知らない土地の家屋を眺めながらその近所の商店街なども散策するのです。するとどうでしょう。地方の商店街はアーケードになっていることが多く、通りの入口には“○○商店街”とか“~~銀座”などの看板が道の左右に立っている鉄柱の上で架けられています。その看板の在り方でだいたいそこの商店街の繁盛ぶりが窺えるのです。大体がその土地の名前を冠しているのですが、その文字の二つ目とか三つ目の文字が無かったりする商店街はやはりその通りも寂しいことになっています。多くの場合はシャッターが下りっぱなしの閉店したお店が多く、しかもそのシャッターの汚れ具合から想像するにかなり昔に廃業しているような感じがするお店が多いのです。そんな感じの並びがズラッーとしているような商店街は本当に多いです。時折明かりがついていて商売をしているようなお店も何店舗かあったりするのですが、そんなお店のショーケースには殆ど商品が無かったりして、“果たしてこのお店はやってるのか?”と思ってしまったりします。そんなお店の前を通り過ぎながら何気にお店の奥をチラッと除くと誰もいなかったり、また、歳をとったおばあさんが座っていたりしてとても普通に商売をしているように思えないという事が多いです。また、それなりに人が居そうな店舗を見つけると、そこはデイケア施設だったりという事も多いです。一応アーケードの通りを照らす電気は天井から通りを照らしていたりするのですが、人通りもほとんどなく、お店もほとんど閉まっていると、それは本当に寂しい感じがします。“ここもかつては夕餉の買い物をする近所の主婦が腰にエプロンなんかをつけたまま買い物かごを手にして賑わっていたのかなぁ?または”若い奥さんなんかは小さな子供の手なんか引いたりして結構夕方は混んでいたりしたのかな?”なんて想像してしまします。時の流れとは残酷なもんだと思ってしまうのです。そして閉店しているお店の看板を見るのもちょっとした楽しみです、町の電器屋、八百屋、魚屋という看板はよく目に付きます。そして辛うじて開いているのが婦人物の洋品店何ていう場合が多いです。その店のショーウインドーのガラスには近所の小学校の体操着を取り扱っているという紙が貼ってあることも多いです。そして飾っている洋服は“誰がこんなん買うんやろか?”というような代物である場合が多いです。“この商売で生活が成り立つのかね?”なんていう余計な心配もしてしまいます。そんな時にふと思うのですが、“そういえば近所の団地から出てくる婆さんはこんな服きてんなぁ・・、なるほど今、客は入って無いけど需要はあるのね・・”と勝手に納得したりしています。
自分がいま住んでいるところは東京の郊外で、近所には昭和40年代に建てられた様な団地がスラーっと並んでいるところもあります。休日の夕方にそこを散策すると団地の下には店舗がついているような建物もあります。それらの店舗も残念なことにほとんど開いていません。そうなるとその光景は見ようによっては無機質な建物に思えてとても寂しい雰囲気を醸し出しているのです。“今の日本はどこも同じだなぁ”と思わずにいられません。みんなどこで買い物をしているのだろうかと思うのです。確かに駅前に行けばそれなりに大きなスーパーが2,3軒あるからそれで事足ります。スーパーに行けばそのお店一つで日常の食品や消耗品は殆ど賄えるので便利であることは分かります。
では日本の各地の商店街が廃れたのはスーパーが多くできたからなのでしょうか?そもそもスーパーは私が子供の頃にはすでに存在していました。そして私の記憶では駅前のスーパーと商店街は共存をしていたという記憶があります。かつては共存が出来たのに、なぜ今の時代ではそれが出来なくなったのでしょうか?それに対する自分の記憶を辿ると、私が高校生の頃に日米構造協議という事がニュースに流れていた記憶があるのです。その中で米国は自国の商品が日本で売れない事の原因として『大規模小売店舗法』が邪魔であるというような事を主張していた記憶があるのです。要は、個人商店が米国からの輸入品を仕入れないから日米間の貿易で米国のみが損をしている、という論法だったような気がします。その当時の日本政府の言い分はこの法律は大規模店が乱立すると中小の小売業者の存続が危ぶまれるので、米国の主張とはその意味合いが違うと言っていた気がします。結局は米国に押し切られる形で法律が改正されたようです。それで日本の街がどうなったかというと、郊外に車で行くような大型店が乱立するようになり、小売りの個人商店街が淘汰されたという形で街が変わったように思われます。これはある意味では自然の摂理なのかもしれません。大型店は一括でメーカーから商品をディスカントして購入し、大きな店舗を工夫して販売費のコストも下げて売れば、小売店は太刀打ちできません。かつて存在した『大規模小売店舗法』は販売面積が500㎡を超える店の出店に対し、その土地の行政に届け出をして許可を取らねばならなかった為に、なかなか申請が通らなかったそうです。要はその土地で既得権益を持っていた小売業者を保護するという目的があったのです。既得権益をどう考えるかという観点で考えると、米国の主張はそれはそれで悪くは無いのですが、でも当時の米国の主張もチョッと違うような気がするのです。もし、米国産の商品が市場で競争力があれば日米構造協議であのような主張はしなかったのではないかと思うのです。米国からの観点で見ても、結果として、ウォルマートやトイザらスが日本に上陸して一瞬の繁栄の後に当初の米国の主張とは別の理由で撤退したり、最近ではテレビでも見かけるコストコが繁盛していますが、結果としてとりわけ米国産の物がバカ売れしているとは思えないのです。市井で暮らす私たちにとっては商品の購入形態が変わっただけだったと思うのです。もちろん商品の値引きがしずらい個人商店に比べれば安い価格で多くの商品を購入できているわけですから大きな視点で見ればいい事だったのかもしれません。大型のスーパーは夜遅くまで営業をしていますしね。
そういった意味では、廃れつつある全国の商店街を眺めてどういった観点で物を考えるかという事によって辿り着く気持ちの着地点は異なってしまうのでしょう。私はどうしても商店街が活気のある活き活きした街であって欲しいというノスタルジックな観点で見てしまうので、寂しさしか感じないのですが、経済活動の自然の摂理という観点から考えると全国の商店街の荒廃化はある意味健全な状態なのかもしれません。
ただでさえ少子化で若い人の減りつつある私たちの国日本で廃れつつある商店街を見つめると、そんな少子化まで頭の中で繋げて考えてしまう今日この頃ですが、日本のどこかにまだきっといるであろう百円のおつりを『ハイ!おつり100万円!』と元気よく渡している店主がいる商店街をこれからも探したいです。
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