保管庫④ 『罪苛』
小気味良いリズムで拍手が二回鳴らされる。あるいは甲高い指笛か口笛が鳴らされる。そこには決まって嘲笑の声が混じっている。そのいずれかが、僕が呼ばれる音である。
僕はまるでパブロフの犬のように、とは言ってもそれを待ちわびているわけではないが、その音に素早く反応する。明確な秒数が決まっているわけではないが、一秒の遅れが彼らの機嫌を損ねかねない、ということを知っているからだ。
時には廊下を走り、時には椅子を蹴とばしながら。僕は音の鳴った方へと一直線に駆け出す。僕という人間の中に、いつの間にかそんなプログラムが組み込まれてしまったのではないかと思う程に、たった一つの電気信号が単純に反応する。
音を耳が捉えた瞬間に、僕は感覚を研ぎ澄ます。音の方向を耳で探り、目で彼らの姿を探す。音が鳴らされるときは決まって、彼らは僕が見えるところにいる。しかし、その音がいつ鳴らされるのかは分からない。だから僕は音に過敏になっている。時々、全く関係の無い拍手の音や口笛にも反応してしまうほどに。
初めの頃は当然に抱いていた反抗心というのも、僕と彼らの関係が不変であり続けることで失われてゆき、いつの間にか普遍的な日常の一つになった。
彼らは賢かった。それが問題になってしまわないように、仲間内でも時々そうやって拍手や指笛で互いを呼び合った。それは猜疑の目を向けられないためのカモフラージュであり、その仲間内に僕は含まれていなかったが、傍から見ればそうは見えなかっただろう。
僕は彼らから使い走りを命じられることも一度も無かった。ただ、誰が買い出しに行くべきか。誰が真面目に掃除当番をするべきか。誰が全員分の荷物を持つべきか。
そういった事は平等を装ったじゃんけんで決められた。ただ、そのじゃんけんはたまたま彼らだけが同じ手を出し続けて、僕がその手に負ける手を出すまであいこが続いた。
そうすることで僕一人が負けて、じゃんけんで決めましたと言う名目だけが残る。彼らはそういうことを実に上手にやってみせた。傍目には微笑ましい青春の一コマに見えるように演出をしながら、着実に僕という存在を飼い殺していた。
また、彼らはそれぞれの方面で優秀でありながら、同時に愛想の良い生徒たちでもあった。自分たちが教師や大人たちからどのように見られているのかというのをよく知り及んでいて、それをコントロールすることに長けていた。信頼を勝ち取ることが非常に上手く、大人や教師がこうあって欲しいと願っている子供像や生徒像を違和感なく演じてみせていた。
僕にはそんな状況を打開できる手札が何一つなかった。容姿も身体能力も学力も平均以下で、取柄と呼べるようなものも無く、愛想が良くて、教師たちに気に入られているというようなことも無い。代わりに、人前で喋るのが苦手だったり、初対面の相手に対して過度に人見知りをしてしまったり、作り笑いが下手くそだったり、大きな声で威圧されるように話されると、言葉に詰まってどもってしまったり。そんな欠点ばかりが幾つもあった。
僕もどうにかしてあちら側に行けないモノかと画策してみても、どの分野でも彼らには及ばなかった。煌びやかなステージの上に立つ演者と、客席からそれを眺めるだけのファンの関係の様に。僕と彼らの間には明確に立ち位置が決まっているのだと、理解し、受け入れてしまうのに長い時間はかからなかった。
いつからか、僕は自分の立ち位置を素直に受け入れるようになった。それが自分に与えられた配役なんだと言い聞かせ、反骨精神の欠片も残さず、ただ従順にあれば、少なくとも彼らの敵になることは無かった。そんな僕の姿を見て、情けないと笑う人もあるかもしれないが、僕にとってはそれが紛れもない最善手だったのだ。
およそ、青春と称せるような淡い時間は僕の三年間の高校生活には存在しなかった。代わりに強者と弱者のヒエラルキー、そこに在る絶対的な主従関係という仕組みを知った。高等学校が社会としての仕組みや集団での生き方を学ぶ側面を持ち合わせているのであれば、僕にとっての社会や集団での生活というのは、彼らの上手い付き合い方に等しかった。
そして、苦い記憶と弱者としてのコンプレックスだけが、カップの底に沈殿した粉砂糖のようにどろりと僕に残った。
そんな高校生活に大きなコンプレックスを抱えた僕は、進路選択の時期を迎えた時に、心機一転して何かを変えてやろうと志望校のランクを一つ上げた。しかし、現役合格は叶わず、一浪して志望校とは違う私立大学に入学することになった。
今でも思い出す、人生における悪手の一つだ。
この頃から、両親は僕に対しての小言を零すことが増えた。些細なきっかけで諍いや口論になると、父も母も決まって僕が一浪したことを非難した。時には、一年間の予備校にかかったお金の話まで持ち出されもした。
至極真っ当で正当な非難は、逃げ場もなく僕の居場所を奪っていった。
「誰が今日まであなたを育ててきたの」
母から強く言われると、もう僕には返す言葉はありもしなかった。
家に居る時間のほとんどは両親と顔を合わせないように自分の部屋で過ごすようになった。
両親は僕の事を厄介者だと思っていたようだった。あるいは教育上の失敗作だと思っていただろう。真夜中に微かな話声が階下から聞こえてきて、部屋の床に耳を当ててみるとリビングの声が僅かながらに聞こえてくることがあった。
「いったい、どこで間違えたのかしら」
「お前が甘すぎたんじゃないか?」
「…まぁ、私のせいって言うんですか。貴方もあの子を強く叱った事なんてないでしょう」
「じゃあ、なんだ。俺が悪いって言うのか。俺は毎日、働いて金を稼いできてるんだ。少なくとも、金の事でお前や子供たちを不自由にさせたことは無い」
両親の話声は日によっては愚痴を零すだけで済んだが、大抵は怒気を孕んだ言い争いに変わった。両親が声を荒げ始めるのと同時に、僕も床から耳を離した。逃げるようにベッドにもぐりこみ、音を遮るように布団を被り込んだ。枕に顔をうずめながら、原因が自分にあることがどうしようもなく惨めに思えた。
家での生活と同様に、僕は大学での生活も上手くこなすことが出来なかった。一浪の身分という事もあって、現役生との温度差を強く感じた。
そのうえ、本来はこんな程度の低い大学に来るはずじゃなかったという驕りが僕にはあった。そして、大学という場所でも依然として、集団にはヒエラルキーが存在していた。
何かに優れている者の元に人が集まり、いつの間にか明確な上下関係が生まれている。名前が変わっただけで、高校という場所から何一つとして仕組みは変わっていない。入学からひと月を待たずして、大学という場所にも僕の居場所は無いのだと悟った。
二十歳になってお酒を覚えると同時に、僕はそれに入り浸るようになった。アルバイトで稼いだお金の内、家に入れる分を除いてほとんどをお酒に使うようになった。それ以外に、何か気分を転換させるような趣味も持ち合わせてはいなかった。
自分の弱さも、周囲の輝きも、格差や不平等への不満も。僕を毎晩のように悩ませるあらゆる感情やそれにまつわる事柄が、お酒を呑んでいる間だけはどうでも良い事になった。
大学の講義が無い日は昼間から呑むこともあった。家で缶ビールや缶チューハイを何本か空けた後に、夕方過ぎから外で呑み、夜中に帰って来る。そんな日が年に一度や二度ではなく、月に何日もあった。
そんな夜の帰り路。決まって帰りが少し早く十時過ぎになる時に、家の近くで幾度か制服に包まれた後ろ姿を見かけることがあった。
肩を少し超す程度の黒髪を首元で結んで、皺ひとつない紺色の制服は夜に溶け込み、灰色のスクールバッグの反射材だけが街灯の光を浴び、てらてらと光っている。
すれ違いざまにスクールバックに施された校章を見て、妹と同じ学校の生徒だという事に気づいた。
高校生の夜遊びは感心しないが、自分が注意できるような立場でもなければ、不審者として町内で晒上げられるつもりもさらさら無かった。
その後姿を見かける機会は多かったが、僕は無心で横を通りすぎるように努めていた。
その日は祝日で、両親が一日中家にいた。そのせいで、昼間から両親と言い合いになった。僕は口論の末に家を飛び出し、あれこれと浮かんでくる後悔や自分の至らなさを飲み下すように、お酒を呷った。
午後二時過ぎから九時過ぎまで店を転々としながら飲み続け、家路につく頃にはどうしようもなく酩酊していた。
そして気が付くと、僕はその勢いに任せていつもなら何の気無しに通り過ぎる制服の後ろ姿に声をかけた。
「女の子が…、しかも高校生がこんな時間に独り歩きなんて、感心しないな」
突然に酩酊状態の素知らぬ男に声をかけられたにも関わらず、彼女は実に落ち着いた様子だった。
「そうですよね。…でも、塾の帰りでどうしてもこのくらいの時間になるんです。なんなら、もう少し遅くなることもあります」
そんな風に回答が返ってきたことに僕は驚いた。叫び声と共に、走って逃げだされてもおかしくはなかった。それほどまでに、その日の僕は怪しい人間だった。
「それでも、例えば両親に送ってもらうとか…」
「うち、母子家庭なんです。ただでさえ塾に通うのにお金かかってるのに、それ以上に我儘言えないし、迷惑もかけたくなくて」
彼女はそう言いながら、照れくさそうにはにかんだ。
僕は自分が何となく出した提案が、両親がいるという事を当然とする前提の上から投げかけられていることに気づいて、どうしようもなく恥ずかしくなった。当然のように予備校まで僕を迎えに来てくれていた父や母の車を、僕はありがたく感じたことなど無かった。
「それは…すまない」
「いえ、別に謝られることじゃないので」
立ち居振る舞いや言動から、凛としているという印象を彼女に受けた。真っすぐな芯が一本通っていて、どこかに大木のようなおおらかさと静けさを思わせる。
「お兄さんこそ、高校生じゃないにしてもお若そうですけど。それに、見た所随分とお酒も飲まれてるようですし」
「僕は大学生だよ。君みたいに真面目に勉強したのに、あまつさえ一浪して予備校に通ったのに。志望校に受かることが叶わなかった。哀れな大学生」
僕は酩酊の勢いのままに自虐を交えて口にした。非常に配慮に欠けた発言だという事に気づいた時には、もう取り返しがつかないところまで言葉が出つくしていた。
「いや、すまない。まだこれからの君にする話じゃなかった。…君みたいに真面目に勉強してたっていうのも実のところは分からないし。僕は君みたいにできた人間でもないし。多分、君の方が僕より真面目だし、それにきっと、君の方が僕より賢い」
捲し立てるように早口で弁明すると、それらの発言は途端に言い訳がましく聞こえた。実際、失言を取り繕うための咄嗟の言い訳に等しかった。
「…ふふ、別に気にしてませんよ」
そう言うと彼女は優しく微笑んで見せた。僕の罪悪感を薄れさせるための心にもないお世辞かも知れなかったが、稚気に塗れた子供のような屈託のない笑顔の前では、そんな疑いを持つ事すらも失礼に思えてやめた。
「まぁ、さっき言ったことは忘れてほしい。ただの酔っぱらいの戯言だと思って」
「どうでしょう。私、賢くはないかもしれないんですけど、記憶力は良い方なので」
彼女は左右のこめかみに人差し指を当ててみせた。僕を揶揄おうとするその仕草は、まだどことないあどけなさを帯びていた。
「その記憶力はぜひ、英単語や化学式を覚えるのにでも有効活用してほしい」
「じゃあ忘れるので、一つ質問しても良いですか?」
「あぁ、もちろん」
僕は努めて冷静に返事をしたが、内心では一体何を聞かれるのかと気が気ではなかった。色彩を持たない夜風が宵闇に紛れて肌を刺すように吹き、ゆっくりと火照った身体を冷ましていった。僕は横目で盗み見るように彼女の一挙手一投足に注目し、唇がゆっくりと開いて言葉が発されるのを待った。
「大学って楽しい所ですか?」
彼女の質問は思っていたよりも呆気のないモノだった。僕は二つ返事で「楽しくない」と答えようとして言葉を飲み込んだ。
質問は『大学は楽しい所ですか?』であって、何も誰にとってという事は明言されていない。当然、僕にとってはため息が出るほどに楽しくない場所であっても、煌びやかな舞台上の人間たちにとっては退屈という言葉を忘れる程に楽しい場所であるかもしれない。
では、彼女にとって大学はどちらになるのだろうか。あるいは、彼女はどちらを望んでいるのだろうか。
「…楽しいよ。講義も自分で選べるし、学業だけじゃなくて出来ることもたくさんある。自由な時間も増えるから、自分のやりたいことを見つけるのにもちょうどいい。いろんな人と出会って、いろんな意見を交わして、自分の可能性があらゆる方向に広がっていく。少なくとも、そういう場所なのは間違いない」
口にしたのは、かつて僕が望んだ大学の理想像だった。ヒエラルキーなんてなくて、誰しもが平等で対等に話し合う。志や理想を語り合う仲間がいて、希望と夢に満ち溢れている。
彼女に対して答えるのであれば、これで間違いはないと思えた。
「それを聞いて、またモチベーションが上がりそうです」
彼女は僕の返答に満足したのか、そう答えた。
「そっか。それならよかった」
「ありがとうございます。見ず知らずのお兄さん」
「いや、僕なんかが見ず知らずの女子高生の力になれたなら何よりだよ」
そんなやりとりを交わして、僕たちは顔を見合わせて笑った。何かが愉快で、誰かと一緒に笑う事なんて僕には随分と久しい事だった。
それからしばらく、僕たちはただ無言で歩いた。街灯から次の街灯までの短い間隔の暗闇は物音ひとつない程に静かで、街灯の下に来ると薄橙色の光に吸い寄せられてきた羽虫たちの音が騒がしかった。街灯から更に少し目線をあげれば、空には大きな月が一つと、星々が煌々と散りばめられていた。
僕はとても清々しい気持ちでその空を見上げることが出来た。お酒でなくても、あらゆるしがらみを忘れて満足感に浸れる夜があることを、初めて知った。
人が僕を遠ざけていたのではなく、僕が人を遠ざけていたのだ。周囲が僕を拒絶していたのではなく、僕が周囲を拒絶していたのだ。居場所が僕から奪われて行ったのではなく、僕が自ら居場所を遠ざけていたのだ。
頭の中の靄がゆっくりと晴れるように、まさしく目の前に広がる満点の星空のように爽快に、単純な事に僕は気づいた。
「それじゃ、お兄さん。おやすみなさい」
そう言い残して、少しばかり入り組んだ住宅街の四つ角を彼女は左に曲がっていった。僕はそのグレーの制服の後ろ姿が夜に溶けて完全に見えなくなるまで、四つ角の真ん中で立ち尽くした。
その日を境に、夜の十時過ぎに散歩と称して家を出るのが僕の新しい日課になった。それと並行して、無神経な失言をしてしまわないようにと、昼間から酒を飲むのも止めた。
彼女は退屈な夜の帰路の雑談相手として僕を受け入れてくれた。ためにならないような受験や予備校での失敗談も真剣に聞き入り、つまらない身の上話にも大袈裟に笑ってくれた。
名も知らぬ女子高生の背中を押し、大学は楽しい所だと嘯いた手前、僕は何処かに居た堪れなさを感じていたのかもしれない。あるいは、彼女のひたむきさや純粋さに充てられて、自身の卑屈さや薄暗さに嫌気がさしたのかもしれない。そしてあるいは、そんなことは全部どうでもいいことで、ただ彼女と共に過ごす時間の心地よさに浸っていたかっただけなのかもしれない。それは自分の事であるはずなのに、自分にさえ全貌が見えないような事だった。
サボりがちだった大学にもきちんと通うようになり、大学が無い日は昼から夕方にかけて課題に取り組み、夜の十時前になると同時に家を出た。恥ずかしい話だが、僕は彼女に変化のきっかけを与えられたのだ。
僕はと言えば偏屈で根暗で、ヒエラルキーの底辺でうつ伏せになっている。そんなどうしようもない人間で、生活の半分は生きながらにして既に往生していた。
明日に歩を進めるための目標や活力というのが何一つとして無くて、ずっと今日に立ち止まっていたいというようなことを真剣に考えることすらあった。
そんな僕が、彼女と話す事をきっかけに変われるように思えたのだ。
その日大学であった出来事や講義の内容を、彩りの少ない僕の人生の数少ないエピソードの一つを、それを彼女に伝えることが楽しみの一つになっていた。本当にただそれだけのことが、僕にとって明日に歩を進める意味に成りえた。
彼女にとって僕がどんな存在であったのかを知る由は無かった。それは僕にとっては知る必要のない事であったし、彼女にとっても同様であるように思えた。
夜道を幾度か共に歩き、くだらない話を互いに交わし。いつからか僕は彼女との時間に、どこにもなかった心地よさを見出していた。
彼女と話をすることで、僕は変われるのだと確信めいた自信を持つことが出来た。それが自己暗示の類であったとしても、そうしていればいつの日か、卑屈と偏屈の檻から抜け出せるのだと思った。
アスファルトの歩道に敷かれた紅葉の絨毯の上を歩きながら、口元から零れた白い息を目で追った。裸になった街路樹がこれから到来する季節には心もとなく見える。
「あれ、涼真じゃん。…うわッ、久しぶり」
呼び止める声に振り返ると、見知った顔がそこにはあった。僕は自分がその顔をしっかりと覚えていたことに驚いた。蓋をして深く奥底にしまった記憶は、そのせいで風化から逃れ、今なお鮮明なままで残っていたのだ。
「…あ、あぁ。俊太郎君、久しぶり」
それは何ともぎこちない返事だった。僕の動揺が形になって表れたかのように、声は薄く震えていた。三年間にわたってゆっくりと僕の心を殺し、今の僕の卑屈と偏屈の元凶になった男が目の前にいるのだから、無理も無かった。
「ちょうど今、和樹とか直弘たちと休みを合わせて、地元に帰って来ててさぁ」
話題に上がる二人の名前に身が固まった。俊太郎、和樹、直弘。
名前という不変なものが古い記憶を呼び起こし、一瞬にして僕は当時の僕に戻ったようだった。目の前の俊太郎の顔色を伺い、いつ彼の手が鳴らされるかに怯える日々が脳裏に過る。
「いや、マジでほんとちょうどよかった。ちょうど後一人探しててさぁ」
俊太郎は笑いながら長い金色の髪を掻き上げた。身に着けている装飾品や衣服から、彼が当時と変わらず何不自由なく親に甘やかされているのが見て取れた。
「今から和樹と直弘たちと飲みに行くからさ、お前も来いよ」
それが単なる誘いなのか、あるいは命令なのか分からなかった。しかし、気が付くと僕は反射的に答え、彼の後をついて歩いていた。
久しぶりに顔を合わせた和樹と直弘も、見た目が少しばかり変化していたことを除けば、当時と大きくは変わりないように見えた。
和樹は相変わらず勉学の才に恵まれているようで、今は東京にある大学の医学部に通いながら、両親と同じ医者を目指しているとのことだった。
直弘は高校で既に180センチ近くあった身長が更に伸びて、190近くになっていた。スポーツ推薦で入った大学でインカレ優勝を目指しているらしく、筋肉もついて身体は一回りも大きくなっているように見えた。
相変わらず彼らは舞台上の役者なのだと、その姿を一目見た瞬間に思い知らされた。自分の惨めな三年間がモンタージュのように継ぎ接ぎにフラッシュバックする。
それがあまりにも惨めで、何も変わってないことが恨めしくさえ思えた。それでも僕はただ呆然と彼らの姿を眺めているだけだった。
「おい、涼真。聞いてるか?」
気の抜けた僕に向かってそう言うと同時に、俊太郎が二度手を鳴らした。それだけで僕の身体は跳ねるように反応した。
「ごめん、聞いてなかった」
僕が素直にそう謝ると、俊太郎は小さく舌を鳴らして不快感を露わにした。
「だからな、お前には運転手をしてほしいんだよ」
「運転…って。一体何の」
「お前、本当に全く話を聞いてなかったんだな」
俊太郎は小さくため息を吐くと、仕方がないという表情を浮かべながら生ビールのジョッキを一度呷り、再度説明を始めた。
「地元に帰ってきたのは良いけどな、この辺は何もなくて何かと暇だろう。だから、まぁ俺たちとしても色々と溜まるわけだよ」
俊太郎がそう説明する間、直弘はニヤニヤと品のない笑い顔を浮かべていた。
「そこでな、このモヤモヤというか、鬱憤を晴らす遊びがある訳よ」
「鬱憤を晴らす遊び…」
僕は俊太郎の言葉をなぞるように繰り返した。そこには僕の知らない遊びの意が含まれているようで、口に出すとどうにも違和感めいたものがあった。
「そう。溜まってるもんを全部吐き出して、すっきりする遊びだよ」
「それって…どんな?」
恐る恐る僕が尋ねると、俊太郎は小声になって耳を寄せるように合図を出した。
「手頃な女を襲っちまうんだよ。車に連れ込んで、そのままドライブしてりゃ足もつきにくい。それで、免許証と裸の写真だけ抑えちまえばどうにでもなる。向こうも世間体や、ネットに流出されることを気にして、バラされるようなこともまず無い」
淡々と説明を続ける俊太郎の声は耳元から聞こえてくるはずなのに、なぜだか、やけに遠く聞こえた。軽く口に出された言葉たちは現実感を伴っておらず、どこかの別の世界の作り物の話のように思えた。
「いつもは俺ら三人の誰かが運転してたんだけどよ、お前に会えて丁度良かったわ」
「…ちょっと待って。それって、女の人を攫ってレイプするってことだよね?」
「お前、そう生々しく表現するなって。もっと単純でさ、ちょっと一晩だけ遊ぶだけだ」
「でも、それって犯罪じゃ」
「だから良いんだろ? 合法的にナンパして寝ても、面白くなんてねぇよ。いまのご時世、インターネットをちょっと使えば簡単に睡眠薬やら非合法な薬やらが手に入るんだぜ。そんな世の中で、温い刺激じゃ満足できなくなるだろ」
俊太郎はそう言うとケラケラと笑い声をあげた。僕の記憶の中に棲んでいた悪は、知らない間に邪悪へと変貌していたのだ。
「なぁ、手伝ってくれるよな。俺たちが遊び終えた後で、お前にも順番回してやるから」
俊太郎の手が僕の肩に回される。目の前の悪魔は僕の耳元で平然と囁く。人間の形をしているだけで、彼は人の心など持ち合わせてはいないのだと思った。
「…いや、ごめん。悪いけど、僕はやめとくよ」
震える声を誤魔化すように、精一杯の虚勢を張りながら僕は彼らにそう告げた。僕がそう言葉を発した瞬間に、三人の目は獲物を見つけた蛇のように鋭くなった。
「あぁ、ごめん。なんか勘違いさせた? コレ、お願いじゃないんだけど」
そう口を開いたのは和樹だった。耳を撫でるような優しい声で、されど明確なヒエラルキーを思い出させるかのように。鋭く尖った言葉だった。
「まぁ、そう深く考えるなよ。お前は運転だけしてくれれば、それでいいんだ」
続けて直弘が言葉を発した。和樹とは対照的な低い声で、大きな声ではないのにそれだけで威圧感があった。
「そう言えば、涼真は妹が居るんだっけ。お前の二つ下だから、ちょうどいま高校三年生か」
俊太郎は何の予兆もなく話題を転換させ、僕の脳は一瞬その変化に追いつかなかった。
「この遊びはさぁ、若い子ほど反応が良くて良いんだよなぁ。初めの内はバタバタと抵抗するクセにさ、学校にバラすぞ、受験に影響するぞって、ちょっと脅した途端におとなしくなるんだ」
俊太郎の言葉に胃の奥がかっと熱くなって、喉の辺りがきゅっと閉まるのが分かった。差し迫る目前の邪悪にどう対処するべきか。頭はそればかりをぐるぐると考え続け、全身の血管がピンと張りつめて、はち切れそうに思えた。
「まさか、お前の妹ちゃんがそんなことにならないと良いよな。ほんとにさ」
平然と二の句を継ぐ悪魔の表情は至って普通の青年の顔つきだった。そこには何の感情もなく、ただ天気の話を持ち掛けただけかのように、そんな台詞を口にした。
「なぁ、やってくれるよな?」
持ち掛けられた提案に、もはや僕の選択の余地は残っていなかった。彼らの中では僕が反抗することなど、ましてや断ることなど計算に含められてはいないのだ。
三年前に、一生覆ることのないヒエラルキーを受容してしまった時点で、僕が反抗することなど許されないと決まっていた。
僕は目を伏せたまま、力なく頷いた。爪が掌の肉に食い込むほどに強く拳を握り、顎と頬の筋肉が軽く痙攣するほどに奥歯を噛締めた。
指定された決行日は昼間から天気が悪く、薄い暗雲が空を覆っていて、普段よりも少しだけ早く日が沈んだ。画面の向こうではニュースキャスターが、夕方から夜にかけて小雨になる予報を口にし、折り畳み傘を持ち歩くことを推奨した。
午後九時過ぎに携帯に連絡が入り、歩いて十分とかからない公園まで来るように言われた。電話をかけてきたのは俊太郎だったが、電話口の向こうからは和樹と直弘の声も微かに聞こえていた。
「少し、散歩に出てくる」
と僕が告げると、父は無言なままで、母だけが気の抜けた返事をくれた。
最近は夜に散歩に出かける機会が多かったことが幸いして、外出に際して特に不審がられるようなことは無かった。普段は気にしたことなどないのに、手をかけた玄関のドアがやけに重く感じた。
これから加担する悪事の行く末を思うと、次第に公園へと向かう足取りは重くなった。一歩を踏み出すごとに、自分が彼らの従順な飼い犬であった高校生の頃に戻っていくような錯覚を起こした。
僕は幾度となく踵を返そうとしたが、それは脳内でリフレインする彼らの声に止められた。
僕一人が痛い目を見るならまだしも、妹にまで被害が及ぶことを想像すると身体の震えが止まらくなった。前門の虎後門の狼という言葉は、まさしく今の僕のためにあるように思えた。虎に食い殺されるのか、狼に噛み殺されるのか。死は既に確定していて、そのいずれかを選ばなければいけない。僕の選択はそんな類のモノで、それがたまらなく苦しかった。
その重責と苦悩から逃げるように、僕は彼らの計画が何らかの手違いで頓挫するかもしれないとか、手頃な標的が見つからずにただのドライブで終わるかもしれないという微かな可能性に希望を委ねることにした。
それは、あまりに楽観的で選択の重荷と罪の意識から逃れようとする逃避でしかなかった。そして、僕という人間の弱さや醜さが凝縮された愚かな選択だった。
指定された公園付近の道路わきに一台の黒いワゴンが止まっていた。窓ガラスには目隠し用のシートが貼られていて、遠目では中の様子を伺うことはできなかった。
恐る恐るその真っ黒な車体に近づいていくと、急に後部席のスライドドアが開き、三人が顔を見せた。
「おい、おせぇよ。お前ん家からここまで二十分もかかんねぇだろ」
「ごめん。家を出るのが少し遅れたんだ」
僕がそう答えると、俊太郎は舌を鳴らした。
「まぁいい。それよりも、早く準備しろよ」
俊太郎が僕に車のキーを手渡す。僕はそれを受け取ったが、すぐに運転席に乗り込もうとはしなかった。大きな分水嶺を前にして、何かよからぬことが起きるのではないかという予感が、本能的に僕の身体の動きを止めていた。
「おい、何してんだ。早く運転席に乗れ」
俊太郎はそう語気を強めて言い、僕の耳元で二度手を鳴らした。
僕はもう考える事すら億劫になった。このまま流れるがままに流される方が、辛いことが少ないように思えた。結局、僕はそれが楽だからという理由で黙って従うことを選んだ。
「とりあえず、人気の少なそうな道路をぐるぐる走れ」
という俊太郎の命令のもと、時速四十キロ程度の速度で、女性が歩いていないことを願いながら車を走らせた。運転席側と後部席の間は黒いカーテンで遮られており、後ろの方では物音がするだけで三人が何をしているのかは分からなかった。
いつになくハンドルを重く感じて、アクセルを踏み込む足もおぼつかなかった。しかし、恐ろしいもので十分もする頃にはいつものように平然と運転することが出来るようになっていた。それからは、夜道を照らすヘッドライトが誰も映し出さないことを願うことしかできなかった。
だいたい一時間くらいの時間が経った頃、しびれを切らしたのか、カーテンの向こうから焦りを孕んだような声で路肩に車を停めるように言われた。指示通りに車を停めると前後席を遮るカーテンが開かれた。三人は顔を隠すために黒い目出し帽を被っていて、一瞬誰が誰なのか判別がつかなかった。
「おい、さっきから全然人が居ねぇじゃねえか」
目出し帽の奥の目をぎらつかせながら、運転席の僕を睨んだのは直弘だった。他の二人よりも身体が一回り大きい分、彼だけは簡単に判別がついた。
「それは、僕にはどうにもできないよ」
僕は彼らを下手に刺激しないように、柔らかい口調で答えた。直弘は酷い興奮状態にあるのか、三人の中で最も息が荒く、落ち着きのない様子だった。
「…仕方ないな、住宅街の方に車を戻そう」
直弘を宥めるように言ったのは和樹だった。和樹は右の手に細い紙巻煙草のようなモノを持っていた。ただ、それがただの煙草ではないことは、後部席に漂う異様な甘い匂いで分かった。
「住宅街に戻ってどうすんだよ?」
「自分たちで獲物を探すより、獲物が巣に戻ろうとするのを狙おう。巣に近い分、人気も多くなるし、危険度は上がるかもしれないけど、そっちの方が確実だ」
和樹の言葉に他の二人は黙り込んだ。十秒にも満たない沈黙が流れ、俊太郎が口を開いた。
「よし、和樹の言う通りにしよう」
その表情は目出し帽のせいで見えなかったが、彼の口角は上がっているように見えた。
「おい、涼真。住宅街の方に車戻せ」
俊太郎はそう命令を下すと、乱暴にカーテンを閉じた。話声は一瞬にして消えさり、ハザードランプが点滅する音だけが耳に残った。
住宅街の方に車を走らせていると、まばらに人影が見られるようになってきた。しかし、そのほとんどが男性であるか、集団であるかのどちらかであった。
そうして無為に時間だけがゆっくりと過ぎていき、僕は、計画が頓挫になるのではないかという期待を強めた。
「おい、そこの路肩に停めろ」
仕切られたカーテンの向こうから声だけが聞こえた。僕はゆっくりとブレーキを踏みながらハザードランプを点灯させると、車を路肩に寄せた。
落ち着いて辺りを見渡すと、最初に集合場所として指定された公園が目についた。女性が一人で歩いていませんようにという事にばかり気を取られていて、僕は自分がどのあたりを運転しているのかというのがよく分かっていなかった。
「おい、どうする?」
「どうするもこうするも、女が一人で歩いてないんじゃ話にならねぇだろ」
「もう、二人でも三人でも構わねぇんじゃねぇか?」
「…いや、慣れてないことをやるのは危険だ。二人の内、一人に逃げられて通報される可能性がある。リスクは最小限にするべきだ」
「じゃあ、どうすんだよ」
ハザードランプの音を混ぜながら、カーテンの向こうで話す声はだんだん大きくなった。彼らの焦燥や緊張感の高まりがその声から感じ取れるようだった。
「俺が外を一人で少し歩いてくる。それで、良い獲物がいれば何か理由をつけて車まで誘導する」
そう提案したのは和樹のようだった。
「それでもダメだったらどうするんだよ」
「その時考えたいが…多分、中止だ」
初めて和樹の口から明言された中止という言葉に僕の胸が高鳴った。天上から神様が事の一部始終を見ていて、僕のために計らってくれたのではないかと思いさえした。
「だったら、和樹一人じゃなくて三人か、二人で行く方が良いんじゃないか?」
「そうだ、お前ひとりで行って、失敗したらどうするんだ?」
そう口を挟んだのは俊太郎と直弘だった。
「俊太郎、直弘。これはナンパと一緒で、如何に警戒されないかが大事なんだ。二人も三人も男が居たら、おのずと女の警戒心は強まる。更に、それが金髪のチャラついた男と、上背の高い大男だったらどうだ。威圧感しかないだろう。こういうのは、相手にあくまで一対一だと思わせることが肝なんだよ」
和樹は冷静にそう言い切り、他の二人の反論を制した。
「とにかく、俺が上手くやってみるから。車は、そうだな。あの公園を囲ってる木の茂み辺りに、目立たないように移動させといてくれ。俺がターゲットを連れて、車の一メートル付近にまで来たら、その時はお前らの出番だ。頼んだぞ」
和樹は二人に言い聞かせると、後部席のドアを開けて外に出た。そのまま住宅街の方に向かうかと思うと、車の前に回り運転席の僕の方へと歩いてきた。
コンコンと運転席の窓ガラスを叩かれ、僕は不安げに窓ガラスを下げた。僕の目の前に顔を見せた和樹は目出し帽を外していて、代わりに黒の帽子とマスクをそれぞれ右と左の手に持っていた。
「おい涼真。話は大体聞こえてたと思うけど、お前は俺たちの計画が上手く行ったらすぐに車を出せるようにしとけ。エンジンもかけっぱなしでな」
厳しい顔で和樹は言った。僕が返事もなくただ頷くと、和樹は一瞬の内に愛想に満ちた優しい顔を作り、帽子とマスクを着けて、今度こそ住宅街の方へと歩いて行った。
その顔に、彼は失敗しないのだろうなという予感がなぜかあった。僕は言われた通りにエンジンをかけたままにして、ハンドルに顔を押し付けるようにして俯き、目を伏せた。
それが五分だったのか、十分だったのか。はたまたそれ以上の時間が流れていたのか。時間の感覚は曖昧で分かりはしなかったが、急に後部席のドアが開く音がして、大きな物音が数回鳴り響いた。ドタバタと誰かが抵抗する音なのか、座席のシートやドアを蹴るような音が鳴り、三人の荒い息がカーテンを超えてこちらまで届いていた。
僕は閉じていた目を開き、上体を起こしてハンドルを握り込んだ。カーテンの向こうから急いた声で
「おい、車出せ!」
と誰かが言ったのが聞こえた。その声も焦りを孕んでいたし、僕自身も焦りでいっぱいいっぱいだったので、誰の声だったのかを気にしている余裕は無かった。
「やだ、やめて! お願い、離して!」
三人の内の誰でもない声が叫ぶのが聞こえて、僕は一気に緊迫感を高めた。
女性の声が荒ぶる程に、僕の心臓は縮み上がるようだった。身体中の血管の位置が委細に分かるかのように、血が廻って、手が震えた。
「おい、てめぇ。静かにしろ」
直弘の低い声に鈍い音が重なった。聞き覚えのあるその音は、拳と何かがぶつかり合った音だった。その音を境に女性はピタリと声を荒げなくなった。
逸る気持ちを抑え、ゆっくりとアクセルを踏み込んで丁寧に車を加速させた。カーテンの向こうから聞こえていた抵抗の音は、夏休みに捕まえた蝉が籠の中で弱っていくかのようにゆっくりと確実に衰弱していき、やがて消えてしまった。
それが何か薬の作用だったのか、はたまた気絶させられてしまったのか。あるいは、抵抗する気力を奪われてしまったのか。たった一枚の黒い布切れの向こう側で起こっていることが、僕には分かりようが無かった。そんな状況下では、僕には罪悪感を抱いているような余裕さえも無かった。
まるで誰も居なくなってしまったかのような奇妙な静寂があって、その後に後部席の方から、座席が軋むような音が聞こえてきた。事が始まってしまったのだという事実に対して、僕はどうしてよいのかまるで分からなかった。女性の声は聞こえず、彼らの荒い息だけが聞こえてくる中、僕はただ息を殺した。
耳を塞ぎたくても、目を閉じたくても、運転手という役割がそれを許さなかった。不協和音よりも不快な音を聞きながら、運転に集中する他なかった。
どれくらいの時間が経ったのかはよく分からなかった。信号待ちで停車していると不意にカーテンが顔一つ分だけ開き、目出し帽を被った俊太郎が顔を見せた。
「おい、そろそろ公園の方に戻り始めろ」
やけに落ち着き払った声で、それだけで事が終わったのだと分かった。
僕はハンドルを大きく捻り、車を転回させた。バックミラー越しに三人の姿が朧げに見えたが、女性の姿までを捉えることはできなかった。
公園の周囲を囲う茂みに車体を隠すように停車した。闇に紛れた真っ黒なワゴンは遠目からは視認することさえ難しく思える。
後部席のドアの開く音がして、バタバタと人が下りる気配があった。一人、二人と人影が公園の方へと抜けていくのを見ながら、僕は運転席に座ったままで次の指示を待った。
俊太郎の手によってカーテンが大きく開かれ、僕は久方ぶりに後部席の様子を確認することが出来た。倒されたシートの奥の方からすらりと伸びてくる白い足が見え、その手前に俊太郎は胡坐をかいて座っていた。俊太郎の影に隠れて、女性の体までは確認できなかった。
「おい、これで写真撮っとけ」
俊太郎はスマートフォンと小さなカードのようなものを助手席に放るようにした。その小さなカードの片隅に書かれた “学生”という文字を見て、寒気が走った。学生証を拾い上げるとき、僕は意図的に親指で顔写真を隠すようにした。顔を覚えておきたくは無かったのだ。藁にも縋るような思いで、僕はこの最悪な記憶の解像度を薄れさせようとしていた。
彼らは本当に幼気な学生を襲ったのだ。
怒りなのか後悔なのか、はたまた罪悪感なのか、判別のつかない感情が入り混じって、僕は今さらながらに頭痛と吐き気を催した。
恐る恐る後部席の方に身を乗り出すと、散乱した学生服と女性物の下着を見つけることが出来た。自分が取り返しのつかない所にまで足を踏み入れてしまったのだと気が付いた時、何よりも真っ先に頭を過ったのは身の心配だった。
本当に事件にならないのか。事件になったら僕も捕まってしまうのか。彼らのような悪魔と同類として扱われ、裁かれてしまうのか。
なぜ、僕がそんな理不尽に襲われて不安を抱えなければいけないのか。情けなさと恐ろしさで零れそうになった涙が、僕の瞳を濡らした。
頭の中はそればかりで飽和して、目の前の女の子を気にしている余裕が無かった。
何枚も写真を撮ったら罪が重くなるかもしれない。一度、そんなことを考えてしまうと気が気でなく、僕は一枚だけ写真を撮ることに決めた。
後部席に仰向けで寝転がる女の子はその身に下着の一枚すらも纏っておらず、ガムテープと目隠しで視界と声を奪われていた。
彼女の小刻みに震える小さな体、乱れた髪、白い肌に残る赤み、目隠し隙間から零れ落ちた雫の跡。それらの一つ一つがコトの凄惨さを物語っていた。
「…ごめんなさい」
そんな姿を目の前にして、気が付くと僕はそう口にしていた。しかし、そんな言葉を零してみた所で、僕が犯行の片棒を担いだことは変わりない。悪魔たちに散々と弄ばれた彼女の記録を、これから自らの手で残そうというのだ。
何処かで自分も被害者なのではないかと思っていた僕は、途端に現実に引き戻されたような衝撃を覚えた。自分の吐いた謝罪の安っぽさと、気持ち悪さで胸やけがした。
せめて、こんなことは早く終わらせてしまおう。手早く済ませて、家に帰って温かいお風呂に入って、布団を被りながら忘れてしまおう。
そう思いながら、彼女の顔と学生証を見比べた時に、その違和感に気づいた。
目の前の彼女の顔はガムテープと目隠しで半分以上隠されていて分からなかった。学生証に刻まれた名前も聞き覚えは無かった。しかし、学生証の顔写真には見覚えがあった。
目の前に転がる裸の彼女を僕は知っていた。それどころか、幾度が夜道を共にしたことさえあった。
母子家庭の彼女だ。それに気づいた時、ゲーム機の電源が切れたように、ぷつんと脳の働きが止まった気がした。
僕は目の前をただ呆然と流れる現実を受け止めきれなかった。驚きに近い衝撃が真っ先にやって来て、それで脳が麻痺した。哀しみだとか、後悔だとか、怒りだとか。そういった感情はやって来ず、ただ、麻痺した脳はそれを事実だと認識するのを拒絶するだけだった。
「…なんで、そんな。いや違う、僕は……」
わずかながらの彼女と過ごした時間の記憶が、頭の中でリプレイ映像のようにゆっくりと流れた。彼女と過ごす時間に希望を見出し、変われるなどと願っていた自分の姿が、そこにはあまりにも愚かしく映っていた。
僕の手から学生証とスマートフォンが滑り落ちた。視界の端に写った学生証を見て初めて、僕は“柳沢美咲”という彼女の名前を知った。
僕の手は確かにそこに在るのに、指に力が入らなかった。目線を少しでも動かすと、彼女の露わになった身体が映り込んでしまうので、堪らず後部席のドアを開けた。
たった一歩、車の外に踏み出した瞬間に安堵を覚えた。いつの間にか迷い込んでしまっていた知らない異国から、ようやくいつもの場所に帰ってきたような感覚があった。
幸いなのか、踏み出した足には力が入った。公園の目のつく範囲には三人の姿が見えなかったので、そのまま逃げるように走りだした。
吐く息は白に染まって、吸う息が肺を刺すように冷たかった。走り続けることで、あらゆる事実を車の中に置き去りたかった。その場所から遠ざかることで、自分という位置を曖昧にしてしまいたかった。大量の酸素を取り込んで、ようやく落ち着きを取り戻し始めた僕の頭は、器用にもそんなことを考えていた。
走りながらも違和感を覚えていたが、公園の影も見えなくなった所で息を切らして立ち止まった時に、自分が強く勃起していることに気づいた。身体中をどくどくと巡る血液がその一点に集まっているかのように、ジーンズの下で、それはパンパンに膨れ上がっていた。
頭の中で、視界の端に捉えた彼女の白い肌がフラッシュバックすると、より硬くなっていくのが感じ取れた。
自分自身を含めた何もかもが気持ち悪く思えて、息が切れていることも構わずに再び走り出した。そうやって僕は、ただひたすらに心も身体も逃げることを選んだ。
僕が求めていたきっかけというのは、本当は何でも良かったのだろう。
あの日以来、僕は人が変わったように日々を過ごすようになった。大学の講義には必ず顔を出し、教授の退屈な小話にさえ耳を傾け、板書された内容を端から端までノートに書きとる。まさしく優等生の鏡のような学生に僕はなった。
また、大学以外の時間には淡々と課題をこなし、休むことも無くアルバイトに努めた。講義もアルバイトもなく、家にいるだけの時間には本を読むことや映画を見ることが増えた。ただ呆然としているだけの何もしない時間には、どうしてもあの日の事を思い出してしまいそうになったからだ。
あの日の翌朝、真っ先に僕がしたことは俊太郎への弁明だった。
『写真を撮ろうとしたけれど、女が呻き声をあげたので急にパニックになってしまい逃げだしてしまった。本当に申し訳なかった』
嘘を交えて、そんな文面のメールを送った。彼らの矛先が次は僕に向けられるのではないかと思うと気が気ではなかった。
『そうか。写真は俺たちで撮った。しっかりと学校の名前も使って脅しておいたから問題はない。…当然だが、お前も誰にも話すなよ』
その日にうちにそんなメールが返って来て、僕は安堵を得た。彼らの怒りを買ったのではないかという不安と、本当は事件になっていて今にでも警察が僕の所にやって来るのではないかという不安の二つが一度に解消されたのだ。肩の荷が一気に下りて、気が休まっていくのが分かった。
気が休まるのと同時に、僕は自身の気持ち悪さと醜さを知った。何より先に保身に走り、彼女が今どうしているのかという事など気にもかけず、自分の安全が確保された喜びに浸っている自分がいるのだ。
皮肉にも、僕は心のゆとりを得て初めて、客観的な目線から自分を見つめることが出来た。そうして見つめる僕の姿は、あまりに醜く、愚かで、愚図で、汚らしく、穢れていた。
他人につけた傷の痛みに無頓着になって、何一つ傷を負ってはいない自分の事ばかりを考えている。自分という存在の安全の前では、誰かの痛みなどこうも簡単に忘れてしまえる。
つまるところが、僕は他人の痛みに共感できるような優しさなど持ち合わせておらず、悪魔と称した彼らと何ら変わりないのだ。
僕は自身が加害者であることを自覚した。あるいは、加害者であることを思い出したかのような感覚だった。既に種は蒔かれていて、僕はそれを見て見ぬふりでやり過ごそうとしていただけなのだろう。罪の意識はゆっくりと、それでいて確実に僕に根付いていた。時間と共に記憶というのは淡く薄れていくものであるはずなのに、絶えることのない時間がまるで水のように流れて、僕に根付いたそれは日を追うごとに膨れ上がった。
罪の意識から逃れる唯一の手段が、何かに没頭することだった。あの日を思い返す隙間を持たないように、常に頭も体も酷使し続けた。とりわけ、慣れないことに手を出すのは精神的にも肉体的にも疲れるので、効率が良かった。普段は絶対にそんなことをすることは無いのに、講義で隣の席になった相手に対して積極的にコミュニケーションをとってみたり、アルバイト先の後輩を誘ってご飯に連れて行ってみたり、目覚ましをかけて朝早くに起きてランニングをしてみたり。
不思議なことで、そうやって特定の記憶から逃げるためだけに色々な事に手を出していると、以前よりも生活は豊かになり、彩りも増えていった。
それは僕がずっと望んでいたことで、それはあまりにも簡単なことだった。
皮肉を通り越して、何か滑稽な喜劇を見ているかのようだった。最悪の罪に苛まれて初めて、僕は自分の生活を変えることが出来たのだ。
そんな日々は罪を風化させるのではなく、より色濃く映し出す手助けをした。生活が豊かになって、満たされるほどに、僕は辛くなった。
それでもいつか時間が、魔法をかけるかのように忘れさせてくれるのだろうと、僕は信じてやまなかった。
単調で惰性的な長編小説を読みながらベッドで横になっている間に、気が付くとうたた寝をしてしまっていたようで、部屋のドアを叩くノックの音で僕は目を覚ました。
父か母だろうと推測してドアが開くのを待っていると、ドアの向こうから聞こえてきたのは妹の声だった。
「ねぇ、入っていい?」
予想外の来客に戸惑いながら、僕は部屋中をざっと見渡した。目のつくところに隠すようなものが無いことを確認してから、ゆっくりと答えた。
「あぁ、華か。どうぞ」
軋む音を立てながらゆっくりとドアが開いて、華が姿を見せた。身に纏う制服を目にすると、途端にあの日の記憶がフラッシュバックするようで、僕は悟られないように視線を外した。ベッドから起き上がると机の方に移動して、あたかも忙しい学生であることを演じるように、、まとめる必要もないレジュメたちを整理するふりをした。
「今、忙しかった?」
「別に、忙しくはないけど」
華はベッドの隅に腰を下ろすと、少し間を空けて口を開いた。
「あのさ、大学のことなんだけどさ」
その声は割れ物に触るかのように慎重で、何かを避けているかのような言い回しが華らしく無かった。
「そういうのは僕じゃなくて、父さんか母さんに話した方が…」
「えっと、そうじゃなくて。…私の大学の話じゃなくて」
華はそこまで言って、言葉に詰まったように黙り込んだ。二人しか居ない室内では、誰に配慮しようとしているのかは分かり切った事だった。
「俺の大学の事?」
「それも違くて…」
僕には華が一体何の話を持ち掛けようとしているのかが分からなかった。そもそも、彼女がこうして僕に話かけてくるという事が珍しいことで、何かが起こっているのかも知れなかったが、皆目見当もつかなかった。
「なに、何の話?」
「その、お兄ちゃんが志望してた大学の話なんだけど…」
華が目を伏せながら、小声でそう言ったことで合点がいった。やはり自分に配慮していたのだという事に気づくと、それがあまりに情けないことに思えた。
「別に、僕にとってその話はタブーって訳でもないから。…ごめんな、変に気を遣わせて」
僕は華の緊張感だとか不安を取り除こうと、出来る限り明るく答え、意識的に口角を上げて、慣れない笑顔を作ってみせた。
「それで、その大学がどうした?」
「…その、友達がそこを志望してて。その子、今までは塾に通ってたんだけど、急に通えなくなっちゃったみたいで」
「それは、またどうして?」
「…私も本人には聞けてないから分かんないんだけど。その子の家、お父さんが居なくて、母子家庭だから。もしかしたら、その辺が関係してるのかも」
僕は、そこでようやく言葉の端に違和感を感じ取ることが出来た。既に用意されていた幾つかのピースが綺麗に当てはまるかのような、そんな予感が頭に過った。
華の言葉に口を挟むことも無く相槌さえ打たないままで、僕はただ黙っていた。
「その子、本当にいい子で。出来れば、何か力になってあげたくて。…でも、私が何かしてあげれることなんてなくて。だけど、お兄ちゃんならって思って」
「…それは、僕にその子の勉強を見てほしいってこと?」
「うん。それも、出来れば塾とか家庭教師の相場よりも安く…というか」
「それ、その子の確認はとってるのか? それに、もし家庭教師としてお金をもらって勉強を教えるんだったら、僕の学力じゃ不十分かもしれないし、その子の親とかとも話さなきゃダメだろう」
「それはそうだけど。でも私、もしかしたら家庭教師のアテがあるかもって言っちゃって。…だから、まずは、とりあえず美咲と話してみるだけでも」
華がその名前を口にしたとき、僕の心臓は跳ねた。動脈を通る血液の音が忙しなく体中から鳴り響いているようで、静寂に包まれた空間がとても五月蠅く感じられた。
「…その子、苗字はなんて言うんだ?」
「え、柳沢だけど。柳沢美咲。…なに、知ってるの?」
胃液が逆流して、何か酸っぱいモノが口から零れだしそうになった。それを喉の辺りでせき止めて飲み下すと、僕は口を開いた。
「あぁ、いや。友達の妹が、たしか美咲って名前だったから、もしかしたらと思ったけど違った。…よくよく考えれば、そいつは母子家庭じゃなかったし」
咄嗟に吐いた適当な嘘はスラスラと口を滑って出てきてくれた。華は、何の疑いも抱いてはいないようで、僕は自分がそんな風に上手く嘘がつけることを知らなかった。
「まぁでも、その子の為にも。僕みたいな中途半端な人間より、学校の進路指導教員とか、もっとちゃんとしてる人に話した方が良いんじゃないか」
「でも、学校の進路指導部は大学の紹介とかまではしてくれても、直接勉強を見てくれるわけじゃないから…」
「とはいえ、僕もその大学に受かった訳じゃないんだし、確実に合格させてあげられる保証もない。…きついことを言うようだけど、やっぱり僕以外の人を頼る方が良いと思う」
表面上では理路整然とした言葉を並べながら、僕は心内では自分に問いかけていた。
彼女が塾に通えなくなってしまったのは、先日の事件のせいなのではないか。
だとすれば、今の彼女の状況を生み出してしまった一端には僕の罪があって、贖罪として神様がこの機会を与えたのかもしれない。そう考えると不思議なモノで、この機会を逃してはいけないという気持ちさえ湧いてくるようだった。
ただ、同時にどんな顔をして彼女の前に姿を見せるつもりなのかと、冷静に制御をかけて諭す自分もいた。
背反する二つの意見は僕の中で入り乱れていた。どちらが正解という訳でもない二択を突きつけれられた時、僕が選ぶのは決まってリスクが小さく、自分にとって少しでも楽な方なのだ。
「…頼ってくれたのに悪いけれど、僕じゃ力になれない。その子の未来や将来を背負うような責任は、僕には持てない」
僕は華の顔を真っすぐ見れず、目を伏せながらそう答えた。恐る恐る顔を上げて華の表情を伺うと、哀しそうな目が僕を見つめていた。
(その未来や将来を壊したのは誰?)
頭の中にだけそんな言葉が聞こえてきた。そんなはずはないのに、華の目が僕にそう問いかけているように見えた。
「…そっか。うん、私はそこまで考えてなかった。ごめん、無理言って」
「いや、僕の方こそ、何も力になれなくて申し訳ない」
「ごめんね、時間とっちゃって。ありがと」
そう言って華が浮かべた笑顔はぎこちなかった。作り笑いが下手なところは兄妹で似てしまったのだろう。何もそんな所は似なくてもいいのにと僕は思った。
「あぁ、ごめんな」
部屋を後にする制服姿の背中に向かって僕はそう声をかけた。その言葉は誰に向けて、何に対して口にしたのかよく分からなかった。
多分、その時、頭の中で入り乱れていた総ての事に対して、僕は謝りたかったのだと思う。
その日は上手く眠れず、目を閉じると良くない事ばかりが頭を衝いた。開け放しにしている窓から入り込んでくる夜風が異様なほどに冷たく感じられて、すぐそばまでにじり寄ってきていた眠気を凍り付かせてしまっているかのような気がした。
あの日の記憶に思考が吸い取られないように、僕はベッドの上でどうでもいい事だけを考え続けた。
もし、僕が死ぬのなら、今日みたいに少しばかり寒い日が良い。うだるように暑い夏の日よりも、凍えるように寒い冬の日よりも。その中間の、何とでもない日にふっと死んでしまいたい。
そんな死生観に基づいた思考は、僕の頭を一層冴えさせた。死ぬとはいったい何なのかというところまで思考が及びそうになると、それはとめどなく続く問いの道に思えた。
僕はベッドを抜け出し、物音をたてないように階下へと降りると、足音と声を殺して両親の寝室の前まで歩いた。部屋からは寝息ひとつ聞こえなかった。そうして両親が寝静まっていることを確認すると、僕はまた足音を殺しながら廊下を歩き、静かに玄関のドアを開けて外に出た。
どこに向かうわけでもない足取りは、気が付くと駅に向かうまでの見慣れた道を辿っていた。街灯と月明かりだけが光源の住宅街を抜けて、煌びやかなネオンや看板の光で溢れる街へと歩を進める。駅に近づき、居酒屋やバーの立ち並ぶ飲食街が増えてくるほどに、深夜だというのに人影やら車の姿やらもまばらに見られた。
歩道橋の階段を一段ずつゆっくりと上っていると、その真ん中で立ち尽くす人影が目についた。人影は手すりに手をかけたまま呆然としていたかと思うと、誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、歩道橋の真下を通り過ぎていくヘッドライトに吸い寄せられ始めた。
手すりを乗り越えるように身を乗り出しているのが目につくや否や、僕は二段飛ばしで階段を駆け上り、人影に向かって声を荒げていた。
「おい。馬鹿、やめろ!」
人影は僕の声に気を取られたのか、手すりから半分身を乗り出した状態で凍り付いてしまったかのように動きを止めた。僕は人影に向かって飛び掛かるようにして、ほとんど無我夢中でそのまま羽交い締めにした。人が死のうとしているという目の前の現実と、それに対する焦りで何も気に留めていなかったが、そこで初めて身体の細さから女性だという事に気づいた。
「やめて、離して!」
女性は僕の腕の中で暴れようとしたが、非力な僕ですら簡単に抑え込めてしまう程に力が無かった。
「お願いですから落ち着いてください」
「いや、離して。貴方には関係ないでしょ」
「目の前で死なれたら、無関係じゃ済まないでしょう!」
僕が声を荒げると、腕の中で彼女の身体が小さく震えた。それを機にじたばたと抵抗していた手足は力を失ったかのようにだらりとしなだれた。
「分かったから、もう飛び降りようとしないから…離して」
彼女が無抵抗である意を示すと、僕は恐る恐る拘束を解いた。
「あぁもう、何で。何もかも上手くいかないのよ」
女性はその場に膝をついたかと思うと、身を丸めるように縮こまりながら、人目もはばからず声をあげて泣き出した。
面倒なことになったと僕は思った。このまま彼女を放置して帰ってしまうのは簡単だが、明らかに平常心を失っている彼女を置いていき、何かあったのでは寝覚めが悪い。
僕が居なくなった途端にまた飛び降りようとするかもしれないし、それよりも先に夜の街に潜んでいる悪意が彼女を連れ去ってしまうかもしれない。
そんな思考が頭の端を過ると同時に、頭の中では、あの日の車内での音声と映像がフラッシュバックしていた。
「あぁもう。何で僕なんだ…」
目の前の彼女につられて、僕も何もかもを放り出して泣き出してしまいたいという衝動に駆られた。上手くいかないあらゆる事柄と、ぐちゃぐちゃになった感情を涙一つで洗い流せてしまうのであれば、そうしてしまいたい。
しかし、少しばかり待ってみても僕の頬を涙の粒が伝うことは無かった。感情の渦の中から、悲しみという一つを上手く掬い取ることすら僕には容易ではなかった。それを掬い上げようとするとき、僕は中身の見えない箱の中に手を突っ込んでいるような感覚だった。
「何で、ほっといてくれないの」
女性は鼻をすすりながら、涙声でそう口にした。それが単なる独り言なのか、あるいは僕に向けられている言葉であるのかは判断がつかなかった。その声は掠れていて、僕にしか聞こえない程に小さな声であったのに、届かない場所にいる近くの誰かに向けられているような気がした。
広い世界の小さな国の、更に小さな町の一角にも満たない歩道橋の上で丸まった小さな背中は、僕とは違う世界に生きる姿を克明に映し出していた。
僕の生きる世界は僕が観測できる範囲に限られていて、例えば全く知らない国で飢餓に苦しむような人たちや、戦争や紛争の恐怖から今日も怯えて暮らすような人たちを僕は世界と認識できていない。それでもそんな人たちは今この瞬間も、概念的な世界には存在している。
口にしてしまえば不道徳と糾弾されてしまうような考えではあるが、僕の中には確かにそんな思いがあった。
一体どれほどの人間が、目の届かない範囲の痛みまでをも感知できるというのだろうか。自分の知り得ない痛みや苦しみにさえも寄り添うことが出来るのだろうか。
ましてや、自分の感情さえも掬い損ねているような人間が、どうして他人の感情をすくうことが出来るだろうか。もし、何の過ちもなく、完璧にそんなことが出来る人間が居るのだとすれば、きっとそれは神様のようなモノだ。
「別に、あなたを助けようとした訳じゃないんだ。僕にはそんな優しさなんてない」
僕は小さな背中を見下ろしながら言葉を零した。ただ、彼女に言い聞かせようというようなつもりは全くなかった。言葉は口を出た瞬間から耳に届いて、まるで僕の中だけで循環しているかのようだった。
「あなたが目の前で死のうとしたから、それが僕の世界で起きたことの一つになっただけなんだ。…もし、今日じゃなくて昨日だったら。ほんの十分、時間がズレてたら。僕はあなたの事なんて気に留める必要は無かった」
際限ない感情の渦中に在るのに、不思議と頭は冴えていた。それが喜怒哀楽あるいはその他の何れに分類されるのかは分からないが、渦巻く感情たちはそのままで冷静に頭が働くようだった。
「ひとまず、場所を移しましょう。ここじゃ、目立つし、他の人の迷惑になるかもしれない」
僕がそう呼び掛けてゆっくりと歩き出すと、女性も少し間を空けて立ち上がった。
目的地も無ければ意味もなく、僕たちは彷徨うように街を歩いた。少し後ろをついてきていた足音が遠くなって、振り返ってみると僕と彼女の間には思っていたよりも距離があった。それに気づくと、僕は一度歩を緩めて歩いた。それでも、気づくとまた足音が遠くなっていて、振り返ると彼女の像が先ほどよりも小さく見えた。人気の少ない町を歩きながら、幾度かそんなことを繰り返した。それぞれの世界に生きる僕たちの歩幅が上手くかみ合うことは無かった。
いつの間にか微かな人気すら消えうせ、気が付くと不規則な四つの足音しか聞こえなくなった。知らずの内に喧騒を避け、明るい場所を避けるように僕らは歩いていた。
静寂を破ったのは一粒の雫だった。それは僕の頬に触れたかと思うと、激しい音を伴って降り始めた。つい先刻まで月明かりの元を歩いていたつもりだったのに、月はその姿を隠して、雨模様の雲が空に覆いかぶさっていた。
宵闇と同化したかのような空を見上げて、僕は舌を鳴らした。降り注ぐ無数の雨粒が僕の身体を濡らすと、夜風が追い打ちをかけるかのように厳しく吹いた。
「南公園の東屋」
彼女はそれだけ口にすると、足音を荒げて走り出した。僕のすぐ横を通り過ぎて、彼女の背中が二歩、三歩と遠ざかっていく。僕はそれを呆気に取られて眺めた後、少し遅れて、その背中を追いかけた。
南公園の東屋は広すぎるわけでもなければ、狭いわけでもなく、古ぼけた安アパートの一室くらいの空間だった。中央のテーブルを挟んで二基のベンチが向かい合うように設置されていて、彼女が腰を下ろしたのと反対側のベンチに僕も座った。
互いに言葉を持て余し、一言目を探り合っているような雰囲気があった。あれこれと言葉を模索している五分にも満たない時間が、あまりに長く感じられて、屋根を叩く雨音が、東屋にはやけに響いて聞こえた。
沈黙に耐えかねたのか、口を開いたのは彼女の方だった。
「…聞かないのね」
「…何をですか?」
「何で死のうとしてたのかとか、何があったのかとか」
「それを知っても、僕にどうこうできる訳でもないと思うので。それに、さっきも少し言いましたけど、僕は多分あなたを救いたかった訳じゃないんです」
「自分の世界が…ってやつ?」
「はい。自己中心的というか、自分勝手な考えですよね」
そう答えて、僕は自嘲気味に作り笑いを浮かべた。
「ううん、そうは思わないわ。君の言う自分の世界っていうのは、何も自分勝手って訳じゃない。自己中心的なのは自分の世界においては当たり前の事よ。だって、誰も自分以外の人間を真ん中において自分を形作ることなんてできないでしょう」
「そう言ってもらえると、なんだか救われます」
「本当に自分勝手な人なら、自分の世界だろうと何だろうと、誰がどうなってもなりふり構わないはずよ。…それでも君は、自分の世界において見ず知らずの誰かが死んでしまうことを拒んだ。それは、あなたの優しさに他ならないんじゃないかしら?」
「…それは単に僕が人の死に目を見たくなかっただけの事であって優しさじゃないですよ。それに優しければ人を救える訳じゃない。現に、僕のやった事はあなたにとって正しい事だったのかは分からない。あなたがそれを本当に望んでいたのなら、その覚悟と決断に水を差しただけなのかもしれない」
「確かに。君に止められたことで私自身が救われたかと言われると、それは分からないわ。でも、そうやって私には私の世界があることをどうにか理解しようとして、私のためを考えることが出来るというのは、やっぱり君が優しい人間である証拠だとも思う」
僕の罪を欠片も知らず、正しい人間であることを疑おうともせず、そうして優しさを口に出来る彼女の純真さこそが、僕の目には優しさに映った。ただその純粋な優しさが、僕には鋭く尖った棘のようにも見えて、深い所までずっしりと刺さった。
「…あなたは見る目が無い。僕は優しい人間なんかじゃないです」
そう吐き捨てた自分がどんな表情をしているのかはまるで想像がつかなかった。ただ、聞こえてくる僕の声は、随分とか細くて頼りなかった。
「…きっと、そう思ってしまう何かがあるんだろうけど、君がそうしたように私もそれを聞かないわ。話してしまえば楽になるって言葉があるけれど、世の中には話すべきでないこともたくさんある。苦しみや痛みを打ち明けたからと言って、必ずしもそれから解放されるわけじゃない」
「…だとすれば、この苦しみや痛みに苛まれ続けていれば、いつか救われる日が来ると思いますか」
「それは分からない。と言うより、無責任に答えを渡してはあげられない。私が抱える問題と、君が抱える問題は幾つかの点で類似しているのかもしれないけれど、それは全く同じではないの。君の世界と私の世界が異なるようにね。だからこそ、私たちが見つける答えも、異なっているべきよ」
言葉の一つ一つを確かめるような、ゆったりとした口調だった。何処か虚勢を張っているようにも見えて、彼女もまた、答えを持ち合わせているわけではないのだと思った。
「…君は優しさが人を救う訳じゃないと言ったね。似ているようで違うことだけれど、私は手を差し伸べることが必ずしもその相手のためになるとは思わないの。例えば、転んだ子供にいつまでも手を差し伸べていたら、自分で立ち上がれない子供になってしまう。何かの困難に相対する人にいつまでも力を貸していたら、自分ひとりでは困難を乗り越えられない弱い人間になってしまう。だからと言って、誰にも手を差し伸べないというのは、極論かもしれないけれどね」
「…あなたは、随分と人の強さを信じているんですね」
「いいえ、そんなことは無い。人は弱いよ。私はそれをよく知っている。じゃないと、死のうとしたりなんてしない」
「でもそれって、矛盾してませんか。人は弱いと知っているのに、あなたの考えは人の強さを前提にしているように見える」
「…そうかもね。けれど、矛盾しているからと言って間違っているわけではない。表から見るか、裏から見るかの違いのようなもので、そのどちらもが正解であっても不思議じゃない」
それは、傍から見れば屁理屈のようなモノかも知れなかったが、僕はそれを否定する気にはなれなかった。
「人は弱さだけで出来ていることも無ければ、強さだけで出来てることも無い」
「うん。その言葉はしっくりくるね。強さも弱さもあくまで一部でしかない。…それは、私が弱いからそう思いたいだけかもしれないけれど」
「…いえ、きっとそんなことは無いですよ。少なくとも、そう思っているのは世界に一人だけじゃないです」
「それは…心強いなぁ」
そう言うと彼女は力なく微笑んだ。僕はその表情の柔らかさにあてられて、おのずと自分の肩の力が抜けていくように感じた。
「今日の空は、随分と澱んで見えますね」
東屋から顔を覗かせて、幾つかの雨粒を顔に受けながら空を見上げて僕は言った。
「そうね。でも、景色って心を映し出す鏡のことよ」
彼女がそう答えた。その声は僕の身体にゆっくりと溶けていくようだった。
それから、僕たちは言葉を交わすこともなくただ静かな時間を過ごした。その時間は、おそらく互いが目の前の相手のことなど忘れて、自分の世界においての考え事をしているというような気がした。
僕は柳沢美咲の事を考えていた。一人の少女が持つ僕の知らない世界について、過去、現在、未来と時間を問わずにその全てを思った。
目を閉じると、鮮明な記憶を呼び起こすことが出来た。そうすることで、浮彫になる僕の罪に目を逸らしたくもなった。それでも、僕は彼女の事を考え続けた。
随分と長い時間が経ったようで、雨音が途切れていることにしばらく気が付かなかった。
「…雨、止みましたね」
目を開いて僕がそう声をかけた時には、既に向かいのベンチに女性の姿は無かった。名前を聞きそびれたと思ったすぐ後に、それでよかったのかもしれないと思い直した。
僕と彼女は結局、互いの痛みや苦しみを打ち明けて分かち合うようなことはしなかった。そうすることで不幸自慢と傷のなめ合いに発展してしまうことを、共に心の奥底で分かっていたのかもしれない。痛みを分かち合うことを許容しなかった僕らが強いのか、弱いのか。彼女に確かめてみたいような気もしたが、その機会ももう訪れないだろう。
もし、また会うことがあるならば、その時は互いが自分の世界で抱える痛みや苦しみを取り除いた後で会えれば良い。そんな空想に耽り、ペトリコールの匂いに包まれながら、僕は夜の帰路を長閑にゆったりと歩いた。
その日の内に、僕は華に先日断った家庭教師の件を受け直したいと話した。
「何か、気が変わるようなことがあったの?」
華にそう尋ねられた時、僕は言い淀んだ。僕自身、何かが劇的に変わったというような解釈を得てはいなかった。故に、どう答えるべきなのかというのが分からなかった。
僕は一度息を深く吸い込んで、その空気が肺を満たしていくのを感じながら、水底から水面へと浮かんでいく沫のようにゆっくりと言葉を吐きだした。
「最初に話をもらった時も、色々と思うところはあったんだ。僕は、失敗した人間が成功を目指す人間に教えられることも伝えられることも無いと思っていた。けれど、もしも僕の失敗が誰かの成功の糧になるのであれば、それほど嬉しいことはない。あるいは、それこそが失敗した人間の責務なんじゃないかとすら思う」
それは本心を交えた嘘で、華がそれに違和感を覚えることは無かった。
起きてしまった事、過ぎてしまった事はいつまでも僕に纏わりついてくる。それをなかったことになんて出来ないし、そのことを考え続けたからと言って何が変わるわけでもない。僕がいつまでもその地点で足踏みをしている間にも、世界の時間は流れていく。だったら、それが正しい事なのかは分からないが、僕が世界の方に歩幅を合わせなければならない。
「一度断ってしまった身で頼むのも可笑しな話だけれど、僕はそうするべき…というか、そうしたいと思った」
僕がそう言い終えると華は難しい表情を浮かべた。激昂か罵声か、軽蔑か嘲笑か。どんな態度と言葉を投げかけられるのだろうかと僕は身構えていたが、華が口にしたのは謝罪の言葉だった。
「…ごめんなさい。私、お兄ちゃんの都合なんて本当はまるで考えてなかった。だから、最初に断られた時、内心では全く納得できてなかった。薄情者だって、憎らしく思いさえした」
水槽の中でゆっくりと衰弱していく魚のように、華の言葉の調子は弱っていった。僕はその一言一句を噛締めるように聞いた。
「だって、私にとってはお兄ちゃんの都合なんてどうでもいい事だったから。私は私の都合ばっかりを考えてて、お兄ちゃんがどのくらい悩んでくれていたのかとか、苦しんでいたのかとかは考えもしなかった。お兄ちゃんの強さとか優しさに甘えて、自分は嫌な思いとか苦しい決断を何一つしなくてもいいように立ち回ってた」
華の声が震えて掠れ出すと、有刺鉄線で裸の心を縛りあげられているかのように、どうしようもなく胸が痛んだ。
彼女もまた何も知らない。優しさと強さという幻想を抱く兄の裏に潜んでいる罪を知る由もない。いつか彼女がそれを知る時が来ると思うと、純粋な期待を裏切ることが何よりも恐ろしく思えた。一人の少女を傷つけるだけでは飽き足らず、伝播するかのように多くの人に痛みや傷を与えていく。犯した罪の重さというのを改めると、やはりそれを抱えきれるほどの強さが僕には備わっていない気がした。
「…いや、ごめんな。僕の方こそ、ごめんな。ごめん」
いつか来る日の事を思って、そう口にした時、僕の瞳からは一粒の雫が零れ落ちた。奥歯を強く噛締めてみても、頬を伝う涙を止めることはできなかった。せめて、僕を思って流れる華の涙だけは止めてあげたかったが、僕はその術も知らなければ、きっとそうする資格すら持ち合わせてはいなかった。
自己満足に等しい謝罪の言葉が正しく華に届くことは無い。それでも僕はただ謝ることしかできなかった。
それから一週間と経たない内に僕たちは三人で顔を合わせることになった。夕方のファミリーレストランは平日であるのに程々の賑わいを見せていた。
何名様ですかと声をかけてきた店員に、華が三名の内一人が遅れてくることを告げると、店員ははお好きな席へどうぞとだけ告げてスタッフルームへと消えていった。
華は店内を見渡しながら歩き、やがて四人掛けのテーブル席に腰を下ろした。中央のテーブルを挟んで、二人掛けのソファーが対照に設置されている。そしてテーブルごとに一枚の仕切りを挟んで同じレイアウトの席が設置されている。それはさながら、コピーの羅列のようにも思えた。
僕は華の隣に腰を下ろし、対面のソファーを完全な空席にした状態で彼女の到着を待った。
五分としない内に、華と全く同じ制服に身を包んだ柳沢美咲は現れた。僕が遠目にその制服姿を認めると同時に、華は立ち上がって彼女に手招きをした。
彼女は華の姿に気が付くと表情をほころばせて、飼い主の帰宅を察知して擦り寄りに向かう犬のようにテーブルに近づいてきた。そして、仕切りの影に隠れていた僕の姿に気づくと、ほんの一瞬驚いたような表情をみせ、すぐに元の表情に戻ってソファーに座り込んだ。
「えっと、紹介するね。こちらが話してた家庭教師のアテで、兄です」
華はそう言うと僕に向かって目配せをした。突然にバトンを渡されて僕は困惑した。彼女とは初対面であるかのように振舞うべきか、それとも顔見知りだというように振舞うべきか。そのどちらであるべきかの判断がつかないまま、不自然にならないように答えた。
「…どうも、華の兄の涼真です」
「あっ、どうも。華さんの友人で、柳沢美咲と言います」
そう言うと彼女はその表情を強張らせた。僕の目から見ても明確な変化は、華の目から見ても不可解に映ったようだった。
「…えっと、ごめん。なんかまずかった?」
「…ううん、何でもない。ただ、男の人だと思ってなかったから、ちょっとびっくりしたというか。家庭教師のアテがあるかもとしか聞いてなかったから、勝手に女の人だと思い込んじゃってて」
「あ、ごめん。まだ確定で決まった訳じゃなかったから、その辺の事は全く話してなかった」
「ううん、大丈夫。別に、本当にちょっと驚いたってだけだから。気にしないで」
「うん、わかった。じゃあ、早速本題なんだけど」
そう切り出すと華は、僕と彼女の間を取り持ちながら、家庭教師についての話を進め始めた。その間、僕は一度も彼女の顔を見ることが出来なかった。常にうつむき加減で、極力顔を上げないように努めた。合わせる顔が無いというよりも、顔を見てしまうと何かが零れ落ちてしまいそうで怖いというのが本音だった。
「あくまで提案だから。他の方法で勉強したいとか、別の家庭教師の方が良さそうと思うならそれでもいいの。それは、美咲が決める事だから」
華は説明の最期に、あくまで選択肢の一つであることを強調しながら念を押すようにそう口にした。彼女は説明を受け終えると、顔の前の鼻先の辺りで手を組み、考え込むような仕草を見せた。
「例えば、とりあえず一週間だけ試してみるとかでも構わない。もちろん、その間に給料をもらうことは無いし、一つの判断材料にしてもらえればいい」
僕は華の説明に付け加えるようにそう口にした。華も友人同士でお金の話はし辛いのか、家庭教師の金額は僕に委ねて、相場よりは安くなるようにするとしか説明しなかった。華は見切り発車に等しいスタートを切るタイプだが、裏を返せばそれは判断に迷いがなく、一歩目が早いという事でもある。今はその強みを支えるのが僕の役割であるように思えた。
「…一度、ゆっくり考えさせてください。お金の事も関わってくるとなると、私一人で決めれる事では無くなるので。母とも話をして、それから答えを出してもいいですか?」
彼女は絞り出すようにそう答えた。その回答を受けるや否や華がこちらを振り返ったので、僕は声もなく頷いて見せた。僕の頷きに華も頷きを返すと、ゆっくりと口を開いた。
「うん、わかった。とりあえず今日は提案だけでも出来て良かった」
「うん。ありがとう、心配してくれて」
二人が顔を見合わせて笑い合うのを眺めながら、僕はこっそりと会計票を手に取った。
「じゃあ、僕は先に帰るよ。二人で話したい事もあるだろうし」
「あ、あのちょっと待ってください」
席を立ってレジに向かおうとした僕を呼び止めたのは、華ではなく柳沢美咲だった。予想外の声に呼び止められて、僕の心臓はポップコーンのように弾けそうになった。
「どうかした?」
「えっと、その。もし何か不明な点があったときに連絡したいので、お兄さんの連絡先を聞いておいてもいいですか?」
「え、別に私に連絡してくれればそれでいいよ」
僕よりも先に花がそう答えたので、僕は言葉を失ってしまった。
「それでもいいんだけど、毎回こうやって華に間に入って貰うのはやっぱり気が引けるというか、悪いし。華も私と一緒で受験生なわけだから、無駄な時間を取らせたくない」
僕の耳にはそれが周到に用意されていた回答のように聞こえた。予想外とも思える華の介入から間を置かずして、彼女の言葉は滞ることなくスラスラと出てきた。それはまるで国語の教科書を音読しているかのようで、頭の中の文章を読み上げているように聞こえたのだ。理屈はもっともな言い分で自然だったが、あまりにも自然すぎるが故に不自然に思えた。
「そっか、私の事まで。ありがとう。そうだよね、それに家庭教師の話を受けないにしても、志望校の事で相談できる相手がいるのって、マイナスになること無いもんね」
「もちろん。家庭教師の話以外でも、大学の事とか勉強の仕方とか参考書の事とかでアドバイスできることがあれば、相談に乗るよ」
そう言って僕はポケットからスマートフォンを取り出し、彼女が僕の連絡先を登録し終えたのを確認すると、今度こそレジに向かった。
家へと帰る道を歩きながら、友達の一覧に加えられた彼女の名前を見ていると、些細な段差につまずいて転びそうになった。友達とは、随分と綺麗な呼称と関係値を与えられたモノだと思った。無機質に見える液晶の画面がつきつけてくる皮肉を噛締めながら、僕は路傍の小石を蹴り飛ばした。
その日の夜、柳沢美咲から一通のメールが届いた。
《明日、今日と同じ時間、同じ場所に来ていただけますか》
前置きも何もなく、質素と思えるほどに簡素な文面だった。このメールは僕にしか届いていないのだろうという事は、直感的にすぐ分かった。
《分かった。明日同じ時間に、同じ場所で》
余計な詮索はせず、僕も簡素に返事をした。僕の手は小さく震えていて、ほんの短い文章を何度か打ち間違えた。
翌日、僕は予定よりも数十分だけ早くファミリーレストランに着いた。店内を見渡すと客数は昨日よりも少なく見えた。ちょうど昨日と同じ四人掛けのテーブル席が空いていたのでその席を選んだ。
僕はドリンクバーの香りもなく水で薄めたような味のするコーヒーを飲みながら、文庫本に目を落として、彼女を待った。
カップの中でコーヒーが少しずつ冷め出したころ、僕は視界の端に制服の紺色を捉えた。文庫本から顔を上げると、そこに柳沢美咲が立っていた。僕はすぐに文庫本を閉じて、手のひらを向けながら、対面のソファーに座るように誘導した。
「昨日はいつの間にかお会計をされていたみたいで、すみません。私の分だけでもお支払いします」
席につくや否や、彼女はそう言って灰色のスクールバックから小さな財布を取り出した。
「いやいや、そんな受け取れないって。昨日はこっちから呼び出したようなモノなんだし、あんなの、年上として当然というか」
「いえ、でも…」
「それに、それを受け取ったなんて言ったら、僕が家で華に怒られる」
僕は冗談交じりでそう答えて、薄っぺらな笑いを浮かべてみせた。場を和ませるつもりだったのが、彼女にも気まずい笑いを浮かべさせるだけだったのが申し訳なかった。
僕は温くなったコーヒーを啜って黙り込み、話が切り出されるのを待った。
「お兄さんは、華のお兄さんだったんですね」
「あぁ、僕も妹の友人が君だとは思っても無かった」
その嘘はするりと喉を出た。それが僕の中であまりにも自然に行われたことが、気持ち悪く思えた。
「…まさか、名前も知らないお兄さんとこんな形で再開するなんて思ってませんでした」
「それは僕もだよ」
「だから昨日、びっくりしちゃって。華に問い詰められた時は焦りましたよ」
「僕も妹の手前、初対面じゃないっていうのをどう説明するべきか分からなくて焦った。結局、初対面のフリをしたけど。…もし、それで気を悪くさせたなら謝るよ」
「いえ、それは別に。私もその場で言い出さなかったので、おあいこです」
「そっか、ならよかった」
僕がそう答えると彼女は表情を綻ばせた。それにつられて、僕はさっきよりも数段自然に笑みを浮かべることが出来た。それでも、心の底から笑うには至らなかったし、彼女の顔を真っすぐと見つめることも出来なかった。僕の中に残る罪の記憶が、それを許してくれるはずも無かった。
「華から、塾を辞めたと聞いたけど…」
僕がそう尋ねると、彼女は小さく身体を震わせたように見えた。
「…実は、塾の帰りに変質者に追い掛け回されて、それで帰りが遅くなった日があって。そのことを話したらお母さんも変に心配しちゃって。私も、夜に一人で出歩くのがちょっと怖くなった所もあって。幸い、何も無かったんですけど。色々話した結果、塾を辞める事にしたんです」
彼女がそう話すのを僕はしっかりと聞いていられなかった。身が引き裂かれるような思いで、言葉の一つ一つが作り出された嘘だという事が分かってしまって、まるで知らない国の昔話を聞かされているようだった。
それでも頭の奥底では冷静に、そういうことになっているのかと納得しようとする自分がいて、それがたまらなく気持ち悪かった。
何もなかったと口にする彼女が、平然を装うように浮かべた笑顔が痛かった。もう僕は二度と彼女の笑顔を真っすぐに受けとめることが出来ない。それに気づいた時に、同時に僕は彼女の笑顔を愛おしく思っていたことにも気づいた。しかし、それはあまりにも遅すぎて今となっては無意味な事に思えた。
そのまま僕は何か言葉を返すでもなく、ただ俯いて黙り込んだ。鈍重な雰囲気が火事場の煙のように広がっていき、そこはかとなく息苦しさすらも感じた。
物言わぬ僕に変わって、彼女が続けて口を開いた。
「ごめんなさい、なんだか辛気臭い話になっちゃって。今日はそれよりも話したいことがあったんです。家庭教師の件、まずは一週間からお願いしたくて」
「…あぁ、もちろん。そっちが大丈夫なら、僕の方はいつからでも」
「でしたら、今日これから家まで案内させてもらってもいいですか。それで、出来れば明日からにでも勉強を始めたくて」
「僕は構わないけど」
「じゃあ、それでお願いします」
彼女はそう言うと灰色のスクールバッグを肩にかけた。それを見て僕はテーブル端に置かれた会計票に手を伸ばした。しかし、彼女も同じことを考えていたようで、僕の手は会計票を掴むよりも先に彼女の手と衝突した。
「あっ…ごめんなさい」
彼女は素早く伸ばしかけていた手を引っ込めた。僕は空中で手を彷徨わせて、そのまま会計票まで伸ばした。
「先に出てていいよ。僕、お手洗いに寄っていくから」
僕はそう言い残して席を立った。有無を言わせぬままトイレへと向かうと、用を足すことは無く、洗面所の前で鏡に映った自分の顔を眺めた。
爪が掌に食い込むほどに強く拳を握りしめ、そのまま鏡を殴りつけてやろうかと思ったが、眼前の男の顔を見ていると、風船が萎んでいくようにその勢いもするりと抜け落ちた。
力の抜けた手で水栓を捻り、流れ落ちてくる水で顔を洗った。前髪の先から水滴が滴り落ちて、頬から伝った水滴は首筋を流れた。
顔を上げてもう一度鏡を眺めてみても、当然何かが変わっている訳は無かった。
彼女の家まではファミリーレストランから歩いて二十分程度かかった。僕たちは他愛もない会話をして、その道中を過ごした。他愛のない会話というのも、彼女が尋ねてくることに僕が二言三言で返答をするだけで、僕から話題を投げかけるようなことは無かった。
彼女はかつて夜の帰路を共にしたときの距離感のままで僕に接してきたが、僕はその距離感に適応することが出来なかった。その距離にまつわる記憶を呼び起こそうとすると、それよりも先に別の記憶が僕の頭を掠めた。そうすると、もうそれ以上思い出そうというような気力は湧いてこなくなり、代わりにただ彼女の調子に合わせて自然に振舞うことにだけに注力した。
「部屋まで上がっていかれますか?」
家の前に着いたときに、不意に彼女からそう投げかけられた。
「いや、ここまでの道中は分かったし、おじゃまするのはやめておくよ。…あ、お母さんがご在宅なら挨拶だけでもしておきたいんだけれど」
「すいません。母は仕事なので、この時間帯は家にいないんです」
「分かった。それじゃ、それはまた次の機会にするよ」
「はい。今日はお呼び立てしてしまって、すいません。明日からは、基本的に17時からでお願いします。もし、遅れそうな場合は、その都度私の方から連絡します」
「うん。了解」
そう答えると僕は彼女の家を後にした。少し歩いて、ふとしたタイミングで振り返ってみると、彼女はまだ玄関の前の道路に立って僕の姿を見送っていた。その小さな影がこちらに手を振ったので、僕も小さく手を振って答えた。
再び前を向いて歩き出すと、なぜだか後ろに向かって歩いているような気分になった。名前も知らない鳥の鳴き声を聞きながら斜陽を眺めていると、美しいはずの情景が実に空虚であるモノに見えた。
『景色って心を映し出す鏡のことよ』
旧い箱から思いがけない大切な写真が出てきたときのように、その言葉は頭を過った。
翌日、余裕をもって家を出たせいで17時よりも三十分程早く彼女の家についた。その場に立ち尽くし、一度連絡を入れてみるべきか、17時までどこかで時間を潰すべきかと逡巡していると、不意に玄関のドアが開いた。玄関から姿を見せたのは美咲の母親だった。
「あら、もしかして美咲の家庭教師の方ですか?」
彼女は僕に気づくとそう声をかけてきた。
「はい。ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
そう言って僕は頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ。今日もこれから夜勤なモノで、中々お会いする時間が取れなくてすみません。母の由紀子と言います」
「娘さんの家庭教師をさせて頂きます、橋本涼真といいます」
そう言って僕はもう一度、今度は更に深く頭を下げた。
「あの子から男の家庭教師だと聞いた時はびっくりしたんです。…もうお聞きになったか分からないですけど、変質者に追い掛け回されたのが原因で塾を辞めてしまったので」
「はい。その話は娘さんからお聞きしました」
そう答えるとき僕は顔を伏せた。由紀子さんの目を真っすぐ見れる気がしなかった。
「…それであの子、少し男性不信気味になった所があったんです。元々、父親が居ない生活を強いてきてしまったので、それも原因の一つだったのかもしれません」
「…それは、無理もない事だと思います。娘さんがどれほど怖い思いをしたのか僕が完全に分かるわけではないのですが、そんな体験をされたとあっては」
「ですから、話をした時に女性の家庭教師の方が良いんじゃないかと言ったんです。あぁ、橋本さんがダメだという事では無くて。あの子にとって、その方がやりやすいんじゃないかと思って」
「はい。そのお気持ちは分かります」
「それでもあの子、あなたに頼みたいって言うんです。昔っから聞き分けの良い賢い子で、父親が居ない事に対しても文句の一つを言われた事すら無くて。それどころか、あの子がまともに我儘を言った事なんて無かったんです。それなのに、家庭教師だけはどうしてもあなたに頼みたいって。あの子がそんな風に言うのなんて初めてだったんです」
そう言うと由紀子さんはその表情を綻ばせた。笑ったときの目の形は彼女にそっくりだった。娘の我儘を喜ぶ母親の姿は美しかった。ただ、その美しさの輝きを僕の濁った瞳だけが直視できなかった。
「それであの子に聞いたんです。なんで、そんなにその人にこだわるのかって。そしたら、あの子がこう言ったんです。「優しくて、真面目で、信頼できる人だから」って。そんな風に言われたら、それ以上何を言うつもりにもなりませんでした。私、親としてずっと気になっていたんです。あの子に苦労させてるんじゃないか、無理をさせてるんじゃないかって。ですから、あの子の我儘が聞けて嬉しかった。橋下さん、あの子に我儘を言わせてくれてありがとう。私にあの子の我儘を聞かせてくれて、ありがとう」
由紀子さんはそう言って頭を下げた。その姿に思わず涙が零れそうになった。漏れそうになった呻きを奥歯で噛み殺した。僕は今すぐに地面に頭を擦りつけて、全ての罪を曝け出して謝りたいという衝動に駆られた。
「…買い被りです。僕はそんなに出来た人間なんかじゃありません。こんな風に、誰かに感謝されるような人間でもないんです。ですから、どうか顔を上げてください」
震えそうになる声を必死で抑えた。居たたまれないという表現では不十分で、感情の渦に飲み込まれてそのままどこか知らない場所へ消えてしまいたいとさえ思った。
「私は夫と離婚してしまったモノですから、男を見る目というのが無いんだと思います。でも、娘の見る目を信じています。あの子が信じているあなたを、どうかあなた自身がそんな風に卑下しないでください」
やめてくれ、優しくなんてしないでくれ。そんな言葉が喉の先まで出かかった。僕は生唾と一緒にそれを飲み込んで、小さく頷いて見せた。
「橋下さん。いえ、橋本先生。どうぞ、娘のことをよろしくお願いいたします」
下げられた頭に、僕はどんな言葉を返すべきなのか分からなかった。期待を裏切りたくないなどと思うよりもずっと前に、僕は既に裏切ってしまっている。あまつさえ、それを隠している。そんな人間が一体どんな言葉をかけようというのか。かけられるというのか。
「はい、こちらこそ。どうぞ、よろしくお願いいたします」
結局口を衝いて出たのは形式的な挨拶だけだった。言葉と共に、僕は人生で一度もそうしたことがないくらいに深く頭を下げた。
「あら、もうこんな時間。それじゃ、私行かないと」
由紀子さんはそう言うと軽自動車に乗り込み、去り際にもう一度、運転席の窓から頭を下げた。僕は軽自動車が遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、その影が見えなくなるまでそれを目で追った。ひと時の静寂が訪れたかと思うと、間を置かずに夕方五時を報せるサイレンがけたたましく鳴った。
美咲は実に優秀な学生だった。初日にこれまでの模試の結果や成績表、直近のテストなどを用意させて目を通した。それを見る限り美咲は、その時点で既に志望校の合格水準を満たしていた。正しい家庭教師であれば生徒の優秀さを嬉しく思うべきなのかも知れなかったが、まるで自分の役割の無さを突きつけられたようで、どうしてか喪失感や虚無感を覚えずにはいられなかった。それでも、受験という一発勝負の場において、僕が伝えられることが幾つかあるのだと信じた。伝えるべきことは何なのかというのを考えると分からないことが多かったが、今の彼女に何を伝えてはいけないのかという事は何よりもよく分かった。引っ越しの荷物を段ボールに詰めてまとめるときのように、目の端についたそれらに封をして、片端からしまい込んだ。言葉を選んで彼女に接した。彼女に先生という呼称で呼ばれると、なんだかむず痒さを感じた。
そうして過ごす時間から、ふと切り取られた一瞬を愛しく思ってしまった時。僕はその瞬間を何よりも哀しく思った。
家庭教師を始めてから一週間が経ったとき、由紀子さんを交えて正式に契約を交わすことになった。とはいえ、それは厳格な契約書を用意して、それに署名と捺印をさせるようなことで無く、あくまで口約束の延長戦上に過ぎなかった。
話が金銭面の話題に移ると互いに言い淀むような雰囲気が流れた。一口に家庭教師と言っても、あくまで僕の時間を切り売りするわけであって、その金額や手法が僕に一任されることは由紀子さんも承知していた。厳格な契約ではないからこそ、それは僕が示さなければならない事柄だった。一抹の不安を抱えながらも、自ら口を開いて条件を提示した。
「報酬に関しましては、正直なところ明確に考えておりませんでした。今は金額云々の事よりも、美咲さんの合格の事だけを考えていたくて。私としても、そちらの方に集中したかったと言いますか、上手く言葉に出来ず申し訳ありません。なので、そう言った話に関しましては、受験の結果が出た際に再び機会を設けるという形にさせていただけないでしょうか」
僕がそう言うと二人は顔を見合わせた。返答を待っている間は絞首台に立たされているような気分だった。はっきり言って僕は報酬なんかを求めてはいなかったし、それを求める身に無かった。ただ、それに正当性のある理由を付けて説明する方法を思いつかなかったから、先延ばしにする手段を選んだに過ぎなかった。
「分かりました。橋下先生がそう言われるなら。こちらとしてはそれで構いません」
由紀子さんがそう答えるのを聞いて、僕は胸をなでおろした。
「それでは、契約の話は以上という事で」
僕はそう言うと息を吐き、胸中で密かに決意を固めた。ただ、それはまるで細々とした榾木のようで頼りなくも思えた。どこからかその木は腐ってしまうのではないかと恐れることもあった。それでも、絶えずに流れる時間と日々の中で、頼りない骨組みに肉付けを重ねていくように、決意を固めつづけた。彼女との時間の中で、僕はずっとその罪を問い続けた。
「明日を迎えるにあたって、一つお願いしたいことがあるんですけれど」
美咲がそう切り出したのは受験を翌日に控えた日の事だった。その日は勉強を早めに切り上げて、翌日の準備に時間を割こうという話になっていた。彼女が灰色のスクールバッグの中に、筆記用具や受験票を一つ一つ確認しながら詰めていくのを、僕は黙って眺めていた。
「あぁ、僕に出来る事だったら。何でも」
そう答えて、僕は本当に何でもするという覚悟だった。誰かに命令されるわけではなく、他人の望みや願いを、これほどまでに強く叶えたいと思うのは初めてだった。
「ありがとうございます。そしたら、今、ここで。抱きしめてもらってもいいですか?」
その願いは抑揚のない声で口にされた。声は春風に漂う綿毛のようにふわふわと舞って、根を張るようにゆっくりと僕の鼓膜を揺らした。
「…どうして、僕に?」
目の前の現実が画面の向こうのような感覚で網膜に焼き付いて、そう問わずにはいられなかった。
「明日の試験会場。男の人もたくさんいると思うんです。…私、本当はずっと怖くて。あの日から、学校でも、教室でも、今までみたいに普通に過ごせなくなって。それでも、我慢して頑張ってきたつもりなんですけど、やっぱり不安で。私、弱くて。顔も名前も知らない男の人がたくさんいると思うと、怖くなるんです」
堰を切って出た彼女の膿は、傷口を塞ごうとしていた瘡蓋を破り、とめどなく溢れ出した。あるいは、瘡蓋などというモノは出来ていなかったのかもしれない。彼女の傷口はずっと膿んだままで、晒され続けていたのかもしれない。そう思うと、それを彼女の弱さだと形容することは僕には出来なかった。
大丈夫。心配ない。そんな言葉が次から次に頭に湧いてきたが、口に出せるわけもなく、無意味で芥にもならなかった。
「前にファミレスで話した事、全部嘘なんです。ごめんなさい、今までずっと嘘ついてて、あの日、変質者に追い掛け回されてなんてないんです。本当は、私、あの日、…それよりも、もっと…、酷いこと……」
言葉は途絶え途絶えで、過呼吸気味に息を荒げて、小さな肩を大きく上下させながら、細い指先を震わせて。僕には彼女が今にも壊れてしまいそうな人形に見えた。
そうすることが決してあってはならない事だと理解しながら、何よりも重い罪を重ねる事だと知っていながら、それでも、僕は力一杯に震える彼女の身体を抱きしめた。どこを探しても言葉が見つからないのなら、そうする他に彼女にしてあげられることは無かった。
細い体躯は僕の腕の中にすっぽりと納まって、底冷えする部屋の中で唯一ほのかな温かさを孕んでいた。
彼女の震えだとか、苦しみだとか、痛みだとか。その全てを僕が抱えてあげられるのならどれほどいいだろうか。そんな思いが僕の腕に一層の力を与えた。されど、どれほど強く抱きしめてみても、それは叶わぬ願いだった。
どれくらいの間そうしていたのかは分からない。ただ、二つの体温が混ざり合って一つになった頃には、彼女の震えも止まっていた。彼女が僕の背に回していた腕をゆっくりと離すのを合図に、僕も彼女の身体を離した。
僕は何も言葉をかける気にならなかった。思いは全て、溶け合った体温に乗って分かち合えた気がした。同じように思っていたのか、彼女もまた何も口にすることは無く、ただ静かに僕に向けてはにかんだ。
合格発表の日、街には季節外れの大雪が降った。今年の観測史上、最大級の豪雪だと画面の向こうでニュースキャスターが告げていた。
「げぇ。今日、美咲の合格発表なのに、雪とか不吉」
華は窓の外に広がる銀世界を目にして、第一声でそう零した。それからキッチンの僕にコーヒーを催促すると、リビングのソファーに腰を下ろした。
僕はそのコーヒーをいつもより丁寧に淹れると、ソーサーごとトレイに乗せて華の待つリビングへと運んだ。
「…華、僕はちょっと出てくるよ。留守は任せた」
「あれ、お兄ちゃんどっか行くの。一緒に美咲の報告待とうよ」
「ごめん。どうしても、行かなきゃいけない所があるんだ。あの子の合否は多分、僕の方にも届くだろうし」
「…そっか、残念。でも予定があるなら仕方ないよね。いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
そうして華は笑顔で僕を見送ってくれた。暖房だとか電気ストーブだとか、そんなモノが比にならない僕を温めてくれた。
雪面には誰かの足跡や轍が幾つも残っていた。ただそれだけの跡から、僕にはいくつもの世界が想像できた。大きな足跡に並ぶ小さな足跡。ぴったり揃った二つの足跡。真っ新な世界と目につく景色を、僕は美しいと思うことが出来た。決して晴れやかな気持ちではなかったが、その白さを瞳で捉えることが出来た。
吐息が白く染まって宙に舞うと、幼い頃にそれを華と比べ合った事を思い出した。二人して息を吐くだけ吐いて、吸うのを忘れて両親に怒られた。あの頃は怒られたことが不服で腹を立てていたのに、今となってはそんな記憶が愛しい。
この数日を使って、僕は三枚の手紙を書いていた。それは僕の中にある感情を整理することに似ていて、またそれらを書き留めておくための作業に近かった。二枚は家族にあてた手紙で、両親と華に向けて書き、自室の机の上に置いてきた。それは、明日にならない内にでも、きっと誰かが見つけることだろう。
残る一枚は昨晩の間にコートにしまい込んだ。右のポケットに手を入れると、便箋のクシャっとした感触が伝わってきて、今もそこに在るのが分かった。
目的地に向かって降り頻る雪の中を歩いていると、左のポケットでスマートフォンが震えた。その場で立ち止まって、赤くかじかんだ手でポケットから取り出して、ゆっくりと画面を操作する。もたつきながらもメールを開くと、合格掲示板を背に、お揃いの笑顔を浮かべる美咲と由紀子さんの写真と共に、《合格しました!》というメッセージが届いていた。
確かにそれを確認すると、メッセージに返信することは無く、僕はスマートフォンの電源を落として、再びポケットの中にしまい込んだ。
「合格おめでとう」
僕は空に向かってそう呟くと、再び歩を進めた。
少しだけ遠回りをしながらも、僕はようやく目的地にたどり着くことが出来た。本当は、もっと早くここに辿り着くことが出来たはずだった。本当に、随分と遠回りをしたと思った。 警察署の場所というのは知っていたが、足を踏み入れるというのは初めての経験だった。署内は大きな見かけの割には殺風景で、病院や市役所とは違い、どこに行けばよいのか勝手が分からず、受付と思しき場所に向かった。
「自首をしに来ました、罪状は強制性交等罪です。ここにはいませんが、あと三人います」
僕がそう告げると、受付の女性警官は一瞬だけ驚いた表情をみせて、直ぐに仕事人の顔つきに戻った。女性警官が内線でどこかに連絡をすると、どこからともなく男性警官が数名現れた。そのまま別室に案内されて、流れるように取調べが始まった。
僕は僕の知り得ることをすべて話した。僕にとってはそれもまた記憶の整理作業のようで、自分の罪や弱さを一つ一つ並べた。そうしてその一つずつ向き合うことを贖罪と呼ぶのかは知らないが、僕にとってそれが重要な事であるのはよく分かった。
向き合ってみると、彼ら三人に対して抱いていた恐怖というのが大したものではない事に気づいた。それよりも、愛しさを受け止めきれなくなり、純粋さを痛みと感じ、優しさが突き刺す刃物に見えて、澄んだ期待を裏切ることの方がよっぽど怖かった。遅ればせながらも、ようやく僕はそれに気づくことが出来た。
捜査は難航することも無く、粛々と進んだ。彼らは脅しのために保管していたデータが仇となり、余罪も含めた全てが白日の下に晒されることになった。常習性アリの計画的犯行という事もあり、彼ら三人には強制性交等罪やの罪状が付いて、最大刑期の有期懲役が科された。対して僕には、強制性交等罪幇助という罪状が付き、彼らよりも軽い刑期が科された。警察の捜査が優秀だったことに加えて、僕が関わっていない事件の被害者たちからの証言もあり、自首内容の通りに初犯であることが認められた。
様々な人の力が働いて、全てに名前が付けられていって、そうして僕の罪は形式的に処理された。しかし、それはあくまで形式的な罪の処理であって、僕が自身の世界に抱える罪に関しては、その処理を自分で行うより他はない。
幸い、塀の中には十分な時間があった。季節の移ろいと共に、僕はゆっくりと考えることが出来た。雪が解け、桜が咲いて、蝉が鳴いて、紅葉が落ちていった。
そうして、再び雪が降る季節に僕は出所を迎えることになった。
僕を出迎えてくれた華は、言葉よりも先に僕の頬を平手で打った。乾いた音が鳴って、叩かれた頬は温度を伴って痛んだ。
「…ごめんな」
僕がそう答えると、華が今度は逆の手で逆の頬を打った。再び乾いた音が鳴って、逆の頬にも温度が残った。
「…ほんと、お兄ちゃんの馬鹿」
それから華は僕に強く抱き着くと、胸の中で声をあげて泣いた。僕は彼女が泣き止むまで、優しくその小さな頭を撫でた。
「あ、そうだ。手紙」
華は一しきり涙を流し終えると、そう言って肩から提げたショルダーバッグから一組の便箋を取り出した。
「あの子から、預かってきた」
そう言って華は僕に便箋を手渡した。宛名には僕の名前が書かれていて、その筆跡には見覚えがあった。かじかむ手から零れ落ちてしまわないように、その便箋を強く握りしめた。
『言いたい事や言わなければならない事。聞きたい事や聞かなければならない事。
伝えたい事や伝えてほしかった事。話したい事や話して欲しかった事。
私の中には事ばかりが溢れて、頭が飽和しそうなくらいで手紙を書くことにしました。
でも、不思議なものでペンと紙を用意して、いざ書こうと机に向かうと、何一つとして上手く言葉が浮かばなくなるのです。あんなに頭の中で溢れていたのに、どこへ行ってしまったのかと思う程に、すっかりと何も浮かばなくなるのです。笑ってしまいますよね。
書こう書こうと意気込んでしまうと、何も書けなくなってしまうので、お話をするように自然にすることにしました。そうすると、途端に今度は上手く書ける気がして、言葉と文字というのは難しいなと思いました。
そういえば、あの日頂いた手紙の返事をまだお返ししていない事を思い出しました。事件の事を知って、私の所にも警察の人から連絡があったりして。ポストの中の手紙に気づいたのはその後でした。手紙を見つけた時、はっきり言うと読む気にはなれませんでした。その時の私はまだ深い所にいて、そうする気力が何処からも湧いてこなかったのです。それに、その中身を知ることが恐ろしかったというのもあります。何か決定的に私を壊してしまうような内容が書かれているのではないかと思うと、弱い私にはそこに踏み込む勇気が出ませんでした。
週に数回、カウンセラーによるカウンセリングを受けに行くようになり、その度に華が付き添ってくれました。
一度だけ、不安定になった私が華に強く当たった事がありました。私の目に、彼女の優しさが棘のように見えてしまったからです。口にしてはいけないような言葉を口にして、言ってはいけない事を言いました。その頃の私は痛みや苦しみというのに敏感で、何を言えば人がそう感じるのかというのが手に取るように分かりました。それを良くない方向に利用して、彼女を酷く傷つけました。
それでも、彼女は次のカウンセリングの日になると、、何事も無かったかのように姿を見せてくれました。おはよう。といつもと変わらぬ笑顔を私にくれました。
一度、お兄さんの手紙を燃やそうとしたこともありました。玄関先で新聞紙に火を点けて、軽いボヤ騒ぎになったことで母に止められました。母は咎めることもせずに私を抱きしめ、燃やしてはいけない、人の想いを無かったことにしてはいけないと諭しました。
その言葉の意味がきちんと理解できるようになったのは随分と後でしたが、母の力強い温もりが、今でもはっきりと思い出させてくれます。
この一年間、いろんな人に支えられて生きていました。私一人では立つことすらままならなかったのだと、今になると改めて強く実感することが出来ます。
少しずつ元気を取り戻して、周りの人に支えられて決心がつき、そして初めてお兄さんの手紙を読みました。
それから私は、何度も何度も繰り返し手紙を読みました。実を言うと、こうして手紙を書く前にも一度読みました。
手紙を読むと、私は人に想われて生きているのだと感じることが出来ました。同時に、些細な文章からも鋭く、お兄さんの痛みや苦しみの中で藻掻こうとしているのが伝わってきました。辛い時期の最中で、私が痛みや苦しみを知ったからこそ、それを感じ取ることが出来たのかもしれません。
お兄さんは、手紙の中で自分の事を弱い人間だと評していました。痛みに耐えられず、抱えきれなくなった自分の弱さを恨んでいました。
私にはその言葉の一つ一つが鏡のように見えました。酷い苦しみの中で、私もまた弱さというものに、痛みというものに直面したからです。痛みを抱えきれない自分の弱さが、その弱さが人を傷つけてしまう事を知ったからです。
ですが、お兄さん。今、私はこう思うのです。
人は誰しもが自分の痛みを抱えきれない生き物なのではないでしょうか。痛みを分け合う生き物なのでは無いでしょうか。
自分の痛みを誰かに預けても構わないのです。それを一人で抱える必要は無いのです。
自分の痛みを誰かに抱えてもらう代わりに、その人の痛みを抱えてあげるのです。
痛みを抱えてあげたいとすら思うのです。
きっと、それを愛と呼ぶのではないでしょうか。
ここまで長々と書いてみても、やっぱり私は文章が下手なようで、何も伝えられていないのではないかという気がしてしまいます。何かを忘れているような気がします。
忘れていると言えば、まだ合格祝いの言葉を貰っていない事を思い出しました。これ重大なことで、更に一年分の利子が付いて膨らんでしまっています。
なので、合格祝いに一つだけ我儘を言うことを許してください。
直ぐにとは言いません。必ずいつとも言えません。
しかし、もう一度、会って話がしたい。もしも、あなたがまだ痛みを抱えているというのなら、それを私にも抱えさせて欲しい。支えさせて欲しい。
そんな私の我儘をどうか許してください。
柳沢美咲 』
その手紙を読み終えた時、僕の目からは涙が溢れ出してきていた。目頭を押さえ、雫が便箋に落ちてしまわないようにポケットにしまった。
背伸びをした華が今度は反対に僕の頭をさすってくれた。それは随分と乱暴な手つきだったけれど、その手の温もりが身に沁みた。
「なに、なんかいい事書いてあった?」
華は少し揶揄うような調子で聞いてきた。
「そうだな…それは、何処か別の場所でゆっくり話そう。お腹も空いたし」
そう答えると華が僕の脇腹を小突いたので、大袈裟に痛がって見せた。二人の笑い声と共に吐き出された息が白く染まった。
華の車に着くまで、僕たちは互いの息の白さを比べ合って歩いた。