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随筆:小説による対話

 「言葉というものは肝心なことが伝わらないものだなぁ」と実感します。直接的かつ具体的な会話より、何かを媒介にした象徴的なコミュニケーションの方がより深く相手を感じられることがあります。書や絵画、音楽等の諸芸術等はその最たるもの。言葉を使いながら象徴表現であるものに、詩や俳句、短歌等があります。嘗ては手紙のように互いに返し合うものでもありました。そこを発想の起点とし、「小説」を媒介にコミュニケーションがとれたら面白いのでは無かろうか。そのような考えが暫く私の中にありました。それが 往復小説 のコンセプトに紡がれます。

小説の面白さ

 小説は、どう解釈するか、何を捉え、どこに視点を置くか、常に読者に委ねられています。作者の導き手には強い弱いがあり、どうあれ手は離れていくものです。本来「それは」人間が社会で生きていく為の相手を「おもんばかる」能力に相当するに思います。それが弱ってきている。もしくは疲弊している。それが結果的に「小説は嫌い」である理由の一部になっているようにも思えます。ある者は「人付き合いに疲れた」からかもしれません。「俺を放っておいてくれ」「好きにさせてくれ」という声が聞こえてきそうです。

 作者が「ココを読め」、「コレが答えだ」と言ってしまい、仮にそれで真意が伝わるとしたら「小説」を読む必要を感じません。現実にはそうした小説が溢れているように感じます。作家もそれで伝わるのなら「小説」は書かないように私等は思えてきます。小説にはある程度の「無理解」を包摂しているように思います。その幅はとても広く、読む側の持ち物や教養、経験で大幅に解釈が変化していくものです。読者がそれぞれ導き出した答えはそれぞれが正解に思えます。時として筆者の思惑や狙いを知りながら、敢えて横道へそれて遊んでも構わない。私にとって、それが小説の面白さでもあり好きな点です。だからこそ筆者は苦悩するわけです。何かしらの魂を、思いの欠片を少しでも多く如何に伝えるか。

 読者は自ずと筆者の人間性や来歴、知識や過去、視点に結果的に触れ、象徴的に作者を感じます。往復小説は互いが筆者であり読者である為により踏み込んだ形になります。「何かしらの影響を受けた、刺激を受けた」ことを前提に綴っていきます。元となる小説の何を拾うか、どこを膨らませるか、どう幕を下ろすか等は、まさに作者そのものを表わしています。そしてそれをどう捉えるかは読者次第であり、全てが個々に導き出された答えなのです。隣の人が違う結論を見出したとしても「それは違う」とは言えません。「私とは違う。私はこう解釈した」となります。作者もまた自分だけの答えを持つのです。それを端的に言えれば「小説」等書きません。

往復小説の面白み

 往復小説は「単独」で読む場合と、繋がりで読む場合とで見えてみるものが大きく変化するでしょう。複数の作者が書いているから当然なのですが、結果的に前の作者は「それ、それが書きたかった」という意図を結果的に汲み取った小説が続くこともあるでしょうし、逆に「そこを拾ったのか、なるほど面白いな」と相手を知ったり、知らない自分に気付かされることがあるかもしれません。それは筆者にとっても学びになると同時に楽しみにもなるでしょう。読者もまた、読むに連れ、知らず頭の中で作者に加わっているでしょう。

書くということ

 作家の井上ひさし氏は言います。「文章を書く、ということは考えていく、ということなんですね。」そのように私も思います。私なりに付け加えるのなら自分と相手を慮ること。書きながら「違うな」と気付かされることは間々あります。書き終えて「違った。そうじゃない」と思いを改めることもあります。嘗ての偉人たちが言ったように「自らの考えを知るには書くことが最も手っ取り早い」と最近は思えます。

自身のサイトの記事と同じものです。

最終的には”本”という形で手に取れるように考えております。