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もう一人の「日本代表」(#006)      自分を自分で売り込んでインドへ


凄まじい生活で体重10kg減

 アルビレックス新潟シンガポールとの契約は切れ、新規で交渉中だったクラブからは交渉中止を告げられて、アラタは所属する場所を失った。しかし、いったんプロになったというステータスが彼を救うことになる。アルビレックス新潟が自社と契約の切れた選手の情報を公示。それを見たJFL(日本フットボールリーグ。Jリーグと地域リーグの間に位置する、いわゆる実業団のリーグ)の三菱水島FCがアラタに声を掛けてきたのだ。
 三菱水島FCの正式名称は「三菱自動車水島FC」。ホームタウンは岡山県倉敷市だ。1946年、終戦の翌年に「三菱自工水島FC」として創部した名門で、90年代以降は中国サッカーリーグの強豪だった。アラタの入団する前年の2005年にはJFLに昇格。しかし、JFLでの成績は振るわず、アラタのいた06年には前のシーズンからシーズンを跨いで15連敗というリーグワースト記録を作るなど低迷した。さらには、不況と親会社の経営不振が追い打ちをかけ、09年にはJFLから脱退することになった。2010年からは岡山県リーグ1部に加入。翌11年、中国サッカーリーグ(地域リーグ)に昇格し、現在に至る。16年には第52回全国社会人サッカー選手権大会で優勝を果たしている。

「クラブと話をした時点では、仕事半分、サッカー半分ということだったんですが、いざ行ってみたら、サッカー選手としての契約ではなく、三菱自動車の期間工という扱いでした。フルタイムで自動車生産ラインの仕事をして、その他の時間にトレーニングや試合をするということです。僕が配属されたのは塗装部門だったんですが、二交代制で、早番のときは朝6時とか7時から出社して、そのころは残業も多かったので、12時間とか働いてからサッカーをする。遅番のときは夕方出社して翌朝の3時、4時まで働いて、そこからジムに行く。それで朝食を食べてから寝て、お昼過ぎに起きて練習へ。そんな感じでした」

 凄まじい生活だった。仕事がキツすぎて、肝心のサッカーのときに足が動かなかった。わずかな期間にアラタの体重は10キログラム近く減った。チームメートの中にはアラタが一目置くような優秀な選手もいたのだ。しかし、先にも述べたようにチームは不振を極めていた。収入は塗装工としての基本給と残業代のみ。サッカーは一文にもならなかった。いや、正確に言うと、試合があるときは有給扱いにしてもらえたので、ほんの少しだけサッカーで収入を得ていたことになるが。

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