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守る≒諦める社会になっていないだろうか

瀬戸内町議会議員に選出していただき、まもなく2年半が経とうとしています。

定例会は10回、臨時会も合わせると、15回ほどの本議会での議会活動がありました。

まだ2年半弱という月ではあるものの、様々な町民の声を本議会で届けてきました。

議員はあくまでも監視役や提言をする役割に限られ、自ら事業の予算を組むことができません。

「この事業はもっと考えたほうがいい」
「こんな事業も行ってみたらどうか」

というやりとりを数えきれないくらい行ってきました。

町政に対して、町民ファーストの取り組みを行ってほしいと思っているからです。
どれが正しい、間違いということはその場ではないと思いますが、多くの町民が望んでいるのであれば、その声に耳を傾けてほしい。

しかし昨今感じるのは、既に諦めてしまっている人が少なくないことです。

なぜか、「疑問提起≒煙たがれる」→「争う」
という解釈になってしまっている大人が多いような気がしています。

だから煙たがれないように、直接疑問提起すらしません。
問題提起することを行わなくなれば、当然のことながら徐々に物事に疑問を持たなくなります。

一例ですが、
地元高校に進学させると様々な補助の待遇が受けられる。それは学校存続のための必要経費という旗印が経っています。
この旗印自体はごもっともである一方、町内の中学校卒業生は6-8割ほどが町外に進学します。
そして町内から町外の高校に通学させている方もいらっしゃいます。
同じ瀬戸内町民だからこそ、交通費の補助金を出してほしい。
町民だからこそ、地方交付金にも寄与している。
だからこそ、交通費の補助金を出してほしい。

ごもっともな要望だと思っています。

しかし執行部にこの要望を伝えても、執行部からは断られている状況です。

現時点で、この問題について議員の声は調整に反映されていないのが現実です。

それであれば次の手立てとして考えうるのは民意を結集することだと考えています。

市の内外からの署名ということで、市民の民意がどれだけ結集しているのかはわかりませんが、このような形で実名を結集して、声を届ける取り組みも図られています。



当たり前ですが、「なぜ?」と思うことに対して、「なぜこのようなことを行うのですか?」と疑問提起をするのは、極々当たり前のことだと思っています。

それが煙たがれてしまって終わるのはなんだか寂しくはないでしょうか。

むしろ子供たちに対して「分からないことがあれば知ったかぶりをせずに相手に聞きなさい」と教育を大半の人が受けてきたのではないでしょうか。

聞かれるということは、興味があるから、聞くわけです。


直接声を届けるのと煙たがられるかもしれない。
署名をすると名前がばれる。

という自分や親族を「守る」うえでは最善の策だと感じます。

しかし、その守りは後世へ先送りしている守りなのかもしれません。

だからこそ自分が表立って言えないことを伝えてくれる、行動してくれる人がいれば、その人を守るためにもその人を何か守る行動をしてあげられるといいですよね。


奄美群島日本復帰70周年を迎えた2023年。

当時この復帰運動をしてくださった先人たちが、この問題を先送りしていたら私たちは、日本は、どうなっていたのでしょうか。

自分たちの意思表示をすることをあきらめている大人たちばかりの地域で、子供たちはその大人を見て何を感じるのか。

守ることでリスクをとっていないかもしれないけれども、今自分には見えない未来ではリスクとして返ってくる判断も少なくないと思います。

もしこの「守り」が先代から継承してきたものを守れるのだろうか。

「守る」といういう意味を今一度考えてみてはいかがでしょうか。

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