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頑固な満ち引きを持ってしまった我々の、生き残り戦略。

「自分のしたいことがわからない」
時折、陥る心境だ。
そもそも、自分がしたいこと、というのは、本当に、分からないものなのだろうか?

「したいことがわからない」と考えている私は、その実スマートフォンにかじりつき、好みの小説や漫画を読み漁ってみたり、特に興味のないショッピングサイト、インスタグラムを流し見したりする。
何かをしていない状態ではないのなら、その行動そのものが、したいことなのではないだろうか?とふと思い、じゃあ割り切ってしたいだけしてみようかな!とも思うのだけれど、結局「なんか違うなぁ」となり、痛みを訴える頭を抱え、ただ、思考する。
何が違うんだろうか。
結局、「したいことがわからない」の本質は、何をすれば満たされるのか、具体的には、どうすれば頭痛がしないのかがわからない、に一票。
いや、もうそれは結局、「わからない」という名前ではないのだ。
満たされたいのだ。ただ、満たされていたいのだ。
驚くことに、漫然と浮かんでは消えを繰り返した私の「わからない」は、欲望の形すらとっていなかったということになる。

満たされたい。
満たされたいとはなんだろう。
満ちるということは、何か、入れ物のようなものだろうか。
そこには体積があり、容量がある、閾値のある、そういった類のものか。
当たり前に、頭の中(心の中?)にあるその入れ物は、視認できるものでもなければ、測れるものではない。
いや、まぁ、この発展した現代の科学においては、測れてしまうのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
少なくとも私には、そんな技術はないのだから、救いにはなりえない。
そうなると、何をもってして「満ちた」とするのか。
それを決めるのは、自分という、これまたあいまいな概念に他ならない。
けれども、この自分というものすら疑ってかかると現状「わからない」について掘り下げるのは困難を極めるので、こちらは「ある」ということにして、先へ行こうか。

さて、「満ちた」の前提としてあるのは、反転して「満たされていない」だろう。
心のバロメーターを測る便利アイテムはないのだから、結局、その役割を果たすのは「比較する」ことしかないんじゃないか。
そうだ。私は、比較をしているのだ。
わからない、わからないとぼやきつつも、その頭の中にあるのは、自分のなかではきらびやかな状態の、自分。
それは妄想の世界の私か、はたまた過去に体験した私か。
どちらにせよ、…おそろしい。
おそろしいことだ。「わからない」といいつつも、実は満たされた状態を、知っていることになる。
つまり、知っていることを、知らないと、うそぶいているわけだ。
…うそぶいているというと、少し違う気がする。
なぜなら、私は現状を打破し、「満たされない」を「満ちた」に変えたいわけで、そのために頭に痛みを覚えつつも、こんな思考を重ねているのだから。
嘘をついているわけではない。事実、「わかっていない」のだ。
わかっていないのは、「満ちた」へと至る道程を歩もうとする、心だ。
どうすれば、満たされるのかはわかっているのに、たどり着くために必要な、情熱が失われているのだ。

情熱とは、何か。
情が熱いと書く。最近よく聞く言葉だと、モチベーションとかいう。
横文字になるととたんに、自分が「嘘くさいなぁ」と文句をたれ始めるあたり、私の根本は日本語にあるんだろう。
その日本語すら満足に扱えているのかは怪しいが、これまた脱線しかねない。これ以上の脱輪は命取りになる。

して、情熱。情熱がある、ない、とはどういう状態だろうか。
具体的に考えてみる。
情熱があるときの私。
毎朝6時には自然と目が覚める。起き抜け一番、やることがうかんでいる。顔は洗うし服もバシッとお気にで決めて、朝一番に浮かんだあの活動にいそしむ。一日の予定は毎日決まっていて、アップレートまですんでいる。頭にモヤがない。晴れている、とても。
情熱がないときの私。
今。まさに今、ない。とてもない。この文章を書くだけの意欲が持ち上がってきているからなんとか執筆。油断すると、モヤが襲う。ぼんやりと、PC画面を見る。よいっしょ。もう、生きるのによいっしょ。まぁでも、昔に比べると別に絶望はしないし、それなりに割り切って生活してる。お風呂ってハードル高すぎない?
えらい違いだ。とても同じ人間とは思えない。で、私はもうかれこれ34年ものあいだ、同じような状態を繰り返してきている。
そして、情熱のあるときの私こそ。
「満ちた」私であることだけは、確かなのである。

私にとっての、「満ちた」が「わからない」という呪いを打破する鍵なのだとしたら、答えは出ている。
情熱の私であればよい。
…そんなことできるかよ!
ずっと同じ情熱を保てる人間など存在しない。これだけは言える。
どんな人だってきっと、大なり小なり満ち引きがあるのだとしたら、もはやこの「わからない」問題には終止符が打たれるのである。
すなわち「しょうがない」。
しょうがないのだ。そういう生き物なのだ。それは、これまで私が私として生きてきて、もう骨身に染みるほどに、感じていることなのだ。
では何が問題なのか?
しょうがないのだから、満ちていない、情熱の足りないときは、それに身をゆだねていれば、いいじゃないか。
それも一つの解決方法だと、現在の私は思っている。
でもね、世界は、周りの人々は、具体的には仕事とか、そういったものは、私の満ち引きに合わせちゃくれない。
そう、合わせてはくれないのだ。
だから、無理にでも合わせようとする。
自分は、簡単に、変えられるのだと信じて。
そんなまさか!
私も自分が絶対に変えられない、とまでは思わないけれど、でも世界と同じくらい、個人の中の満ち引きも自然なことだと結論付いてしまったから、じゃ、どうすればいいのよ。
それでも私たちは、生きていかないといけないのに。

人の中の満ち引きにも、個人差があるようにおもう(繰り返すけど測れるものじゃないから、確信なんてないよ)。
で、その満ち引きの差が激しいとか、激しくないとか、あとは比較的世界に合わせて満ち引きするだとか、まぁ多分なんかいろんなタイプが合ってだね、それによっても生きる上での「満ちる」難度が変わっちゃうんじゃないかって。
満ちることに対する執念みたいなもの、その加減にも、依存しそうだ。
そして、世界となんとなく比較してみてさ、どうにも私の満ち引きは大きそうだとか、引いてから戻るのに時間がかかるなとか、執念はもはや怨念とも呼べる領域なのではと思うあたり、もう生きにくいったらないじゃない。
こうなってくると、自分の満ち引きの完全コントロールは、あきらめるしかないのだ。
まぁそれでも、ある程度世界と合わせるコツは、あるにはあるけれど。
差し引いても、まだ「生きやすい」域には達さない。
そうするとできるのは、世界を、変えていく。
これしかないんだ。

世界を変えるとは、どういうことか?
頑固な満ち引きを持ってしまった我々の、生き残り戦略だ。
ただえさえ難解なリズムでいうことを聞かない、自分なのかも疑問に思える波の中で、どうやって世界を変えればいいんだと。
心配いらない。世界は放っておいても、変わっている。一秒後の我々は、もはや別の世界を生きている。
そういう話じゃないよね。私が、変えたいのは、動けない自分、なんだから。
自分すら変わらないのに、世界が変わるわけないじゃないと。よく、思う。
でも、不思議じゃないか?
そんな私にも、波がある。波があるということは、良い、ときがあるということだ。
これを使わない手はない。情熱の一端をみつけたとき、逃さないということだ。

さてここで波について少し。
波ってなんだよってなったら、適当に前の方から読み流して。分からなかったら、それはごめん。
波はね、ものすごく引く時もあれば、軽く引く時もある。
まず大切なのは、この大きく引いてしまうことを、出来るだけ防ぐことだ。
大きく引いたものを戻して満たすのは、より難しいから。
そしてそのコツは、…残念なことに、一人一人違った形をしている。一種の、スキルのようなものだ。生きているとだんだんわかってくる。
どんなに短い人生でも、そこには必ず、コツがある。
私の過去を思い返すと、わぁ、もうなんか偉そうに語ってるのが堪らなくなる仕上がりだけれど、それでも、その時どきで、コツのようなものを見出してきた。
アドバイスは、死なないこと。もうこれしかない。
大きく引いてしまった、そのときは。
物理的に、命をつなぐくらいのものだ。
食って寝る。

で、世界を変えるには、軽く引いた時か、運よく満ちてきた、情熱が湧いてきたとき、この二つのタイミングが楽だ。
私の場合、焦点を狭めることも有効。
壮大な夢を掲げたところで、心は竦んで、うごきゃしない。
ギリギリのところを狙わない。
確実に、これは確実に「出来る」そういうことだけ、試していく。
出来ることは、絶対に裏切らない。

出来るとは、どういうことか?
これはとっても簡単だ。今すぐに、もうほんとのほんとの今すぐに、出来ることをする。
横になってないとしんどいくらいなら、息をする。ありがたい。息が出来る肉体が、まだある。
瞬きもいい。手を握って開いて、これもいい。足をばたつかせたりもして。
なんだか調子がでてきたら、そうっと、起き上がってみる。座る。一等賞!
不思議なもので、ここまで、それほど頭は使わない。人間には、無意識に「出来ること」が沢山あるんだ。
出来るの連鎖を何とか利用し、ほんの少しでも満たすことが出来たなら、次は満ち引きありきの自分について、対策を練る。
ちなみに私も実践真っただ中で、この先のマニュアルはない。
でもね、細い糸を手繰り寄せつつあるのでは、と思う。
はい、仕事をするうえで、コンスタントに世界に合わせないといけないものを、極力排除しました。
まずはこれしかない。
お金がないとなかなかどうして大変なので、手に入れないといけないのは間違いない。
まずは、このやっかいな満ち引きに愛された自分を認めて。世界探し。
二点から注目する。
ひとつ、私の満ち引きと、比較的マッチした動きをしそうな世界を探すこと。
ふたつ、引いたときに、遠慮なく離脱可能な世界であること。
今は二つ目が、とても楽だ。私に指示をする人が周りに増えると、どうにも満ち引きが苦しくなるので、一人でも出来ること。
誰かに関わるときも、自分の歩幅で出来る。完結を、自分である程度定めることも出来る。

出来る、はすごい。
小さな積み重ねを作り、私を引きの波から呼び戻す力となる。
でもね。いつかは、私も。
自分の満ち引きの中に、大切な人が笑う、楽しい世界を作ってみたいんだ。

引いてみたり、満ちてみたり、そして言葉を連ねる、世界づくりの、はじまりです。

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