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田籠由美評 市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)

評者◆田籠由美
彼女の細い指先がタブレット端末に触れたとき、圧倒的熱量の小説が爆誕!――著者は自分のために、自分と同様にこの社会に存在しないことになっている人たちのために、身を切り、血を流しながらこの小説を書いたのだ
ハンチバック
市川沙央
文藝春秋
No.3603 ・ 2023年08月12日

■障害者に聖人君子を求めるのはなぜ? 障害者は障害者らしく立場をわきまえて生きるべきだという考えは、変じゃない? それこそ健常者側の驕り。仮にあなたが健常者といわれる人として生まれても、いつ何時、事故や病気や思いもよらぬ状況で障害者になるかもしれない。社会は、誰もがその持って生まれた命を自分らしく安心してまっとうできる場所であってほしい。いや少なくとも、社会を構成するわたしたちひとりひとりは、それを目指したい。
 主人公の井沢釈華は、著者の市川沙央と同じ重い身体障害を持つ女性だ。作中で「遺伝子をミスプリントされた」と表現される先天性ミオパチーによって、日常的に人工呼吸器と電動車椅子を使い、発話にも大変な体力を使う。そんな釈華は日々、自室で背骨をS字にたわませながらタブレット端末に文字を打ち込んでいる。小銭稼ぎのこたつライターとして「ハプニングバー潜入記」を書き、SNSの匿名アカウントで性についての本音を漏らしているのだ。
 SNSの〈紗花〉と名乗る匿名アカウントに、釈華は「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが夢」と書き込む。思いがけず正体を見破ったのは、彼女の終の棲家であるグループホームに勤める若い男性ヘルパー、田中さんだ。釈華は成り行きから、健常者の彼の精子を親が自分に残した財産で買うという提案をする。買値は男性にしては小柄な田中さんの身長、百五十五センチから一億五千五百万。なんとも無茶苦茶な契約だが、釈華は健常者が求める障害者の無難な型に収まることを拒否しているようだ。この世に生まれてきたからには、人と交わり、たったひとつの命を熱く燃やそうともがいている。結局、釈華の無謀な計画は、彼女の嚥下性肺炎による緊急入院や田中さんのグループホーム退職で頓挫してしまう。
 冒頭でのハプニングバーの潜入記事は、いかにも風俗記事っぽい文体で描かれる。これは釈華がグループホームの十畳の自室から一歩も出ずに、想像力とネット検索を駆使して書いたものだ。そんな記事をメディアに売ることで、釈華は外の社会とつながっている。
 最後の風俗嬢のシーンは釈華の妄想なのか。著者は障害者の、それも女性障害者の性へのタブー視に果敢に挑戦する。同じ人間ですよね? どうしてダメなのですか? 誰に対する遠慮? 釈華の命は誰のものですか? 釈華の人生は誰のものですか? 著者は実体験の反映は「三十%」と語るが、釈華というキャラクターを通して、剥きだしに、赤裸々に、でもちょっとユーモラスに問題意識を読者にぶつける。著者は自分のために、自分と同様にこの社会に存在しないことになっている人たちのために、身を切り、血を流しながらこの小説を書いたのだ。すべてが命がけ。彼女にとって、生きることは命をけずること。彼女の体は生きるために壊れてきたのだから。
 難病や身体障害の苦痛、困難の描写を読むのは苦しい。しかし、それをぶっ飛ばすようなドライなユーモアが著者の持ち味で、ネットスラングなども自由に駆使して高い熱量と読みやすさが両立した過激だが楽しい作品が爆誕した。
 作品中の次の言葉が胸に刺さった。日本における本のデジタル化の遅れが、誰よりも本を愛する著者をこんなにも悲しませていたことにも気づかされたからだ。

‐私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること‐5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。

 誰しも、自分が実体験しないことには考えが及ばないことが多い。人間の想像力には限界があるのかもしれない。わたしたちの社会には健常者が見落としがちな様々な壁があるだろうが、そのなかのいくつかに読者の目を向けさせたことに、障害者の当事者文学としての本作の大きな意義を感じた。だが、市川沙央の作品の力強さはそんな”当事者性”の小さな枠のなかにとどまらない。生、性、書くことへと彼女をつき動かす情熱は、読者の心を激しく揺さぶる。彼女の書くことへの命がけの一途さに息をのみ、読後数日たったいまも心の水面に大きな波紋が広がっている。
 若い頃に純文学に挫折。それ以降二十年以上にわたり、毎年エンタメの様々な新人賞に忍耐強く応募してきた市川沙央。まるでこれまで蓄積してきたエネルギーを爆発させるかのように、今回は初めて完成させた純文学の本作で第一六九回芥川賞の栄光を掴んだ。(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3603・ 2023年8月12日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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