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三宅由夏評 ニコール・クラウス『フォレスト・ダーク』(広瀬恭子訳、白水社)

評者◆三宅由夏
故郷と異郷のとば口へ――〈寄る辺なさ〉の感覚を極限まで研ぎ澄ますことで見えてくる世界へと私たちを誘う
フォレスト・ダーク
ニコール・クラウス 著、広瀬恭子 訳
白水社
No.3563 ・ 2022年10月22日

■《故郷とは何か?》故郷喪失者、移民、避難民とその末裔たちに、この問いは執拗に取り憑いてきた。ニコール・クラウスによる小説『フォレスト・ダーク』にも、その鋭く冴え渡った反響が聞こえる。
 主人公は二人のユダヤ系アメリカ人だ。一人は弁護士として立身出世したエプスティーンという中年男。手に入れた芸術作品に囲まれ、自分でも息を飲むほど満足な生活を送っているが、両親の死や妻との離婚を経て、かつては人並みはずれて旺盛だった世界への興味を失い、生まれ故郷のイスラエルへ旅立つ。もう一人は作家の分身的な人物、ニコール。二人の息子がいるが、結婚生活にも小説の執筆にも行き詰まりを感じ、説明しがたい衝迫から「そもそも、わたしはそこで命を授かった」というテルアビブのヒルトンホテルへ向かう。
 こうして一時的にアメリカでの日常生活を脱し、彼らにとって本来の故郷かもしれないイスラエルへ向かった二人は、じわじわと「時の旧来の秩序からこぼれ落ちて、別の秩序に転がり」こんでゆき、ついには失踪する。カフカの小説『失踪者』で主人公カール・ロスマンが異郷アメリカで失踪するさまを反転させたかのような筋書きだ。
 エプスティーンはイスラエルへの渡航前、パーティーで見ず知らずのパレスチナ人にコートを取り違えられ、さらに路上では金品を奪われる。「身軽さ」に憧れ自発的に財産を手放してきたが、そのうえ期せずして身ぐるみ剥がされ、ついには食べ物も受けつけなくなり「からっぽ」な状態へ近づいていく。そこへ一人のラビが接近し、彼のことを「ダビデの末裔」だと言い出す。他方、ニコールはカフカ研究者の老人から、実はカフカはウィーン郊外のサナトリウムで亡くなったのではなく、晩年夢見ていたイスラエルへの移住を実現させており、亡くなったとされる年より数十年も後まで生きていたこと、未発表原稿がイスラエルのとある家に眠っていることを聞かされる。どうやらニコールは「われわれ」ユダヤ人の作家として、カフカの未完の戯曲を完成させることを期待されているらしい。
 旧約聖書のダビデと、ユダヤ系チェコ人作家のカフカ。彼らの目に映っていたかもしれないイスラエルの光景を幻視する二人の主人公の体に、さまざまな時空間が目まぐるしく去来し、こう問いかける――本物と贋物のちがいとは? 現世と楽園、現実と虚構の境目とは? ユダヤ人とは? 変身とは? 故郷とは?
 主人公の二人は一度も顔を合わせることがない。にもかかわらず、似通ったテーマやイメージが異なる場所や時間の尺度で語られると、二人は対照的に見えたり、誰よりも近しい分身のように見えたりする。読者はそんな両者のはざまで、どうして二人とも砂漠へ行き着くのか、そこで二人が起こした行動とは何だったのか、ダビデもカフカも見ることのなかった今のイスラエルの現実、そして随所にちらつくパレスチナの影や移民たちの姿はどう語られていたか、カフカのスーツケースはどんな顛末をむかえたか、ニコールを最後に導く魅力的な犬はなぜ「羊飼いよりも羊に似た」シェパードだったのか、反芻することになるだろう。
 「〈故郷喪失〉が今や世界の運命となる」とハイデガーが言ったように、じっさいの故郷の有無にかかわらず、現代人は多かれ少なかれ自己の拠り所のなさ、存在の不安を覚えるものである。『フォレスト・ダーク』はこの〈寄る辺なさ〉の感覚を極限まで研ぎ澄ますことで見えてくる世界へと私たちを誘う。いくつかの点は曖昧なまま作品は幕を閉じてしまう。しかしだからこそ、本作をめぐる記憶は濃密な問いを孕んだまま、「あの頃のわたしたちがもらってのちに失くしたり忘れたりしてしまった無数のものよりも永く残る」にちがいない。
(英語圏文学研究者)

「図書新聞」No.3563 ・ 2022年10月22日(土)に掲載。
http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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