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眞鍋惠子評 クレール・オペール『シューベルトの手当て』(鳥取絹子訳、アルテスパブリッシング)

評者◆眞鍋惠子
魂に届くチェロの調べ――音楽が心の奥にたどり着いて起こった奇跡のような物語
シューベルトの手当て
クレール・オペール著、鳥取絹子訳
アルテスパブリッシング
No.3627 ・ 2024年02月10日

 チェロによるアートセラピーの物語。人のこころとチェロが織りなす音楽の美しい小品集のようなエッセイだ。
 アートセラピーと聞くと、日本では絵画を通じた心理療法を思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし本作が描くのは音楽による治療だ。
 著者のクレール・オペールは、医師の一家に生まれ、音楽家でもあった父の姿を見て育つ。八歳の時に両親と行ったコンサートでチェロに出会い、チェリストになると決意。二十三歳でモスクワのチャイコフスキー音楽院へ留学した。三十歳になってアメリカ人臨床心理士のハワード・ブーテンに出会い、自閉症の患者への音楽療法を開始。その後、哲学やアートセラピーを大学で学ぶ。チェロ奏者として音楽学校で教鞭を執る一方、音楽療法士として病院での看護にも当たる。さらに音楽と治療の関係について研究をすすめ、世界各地で講演活動も行っている。
 物語の舞台は、自閉症の若者の医療・教育センター、老人ホームの認知症患者の居住フロア、そして終末期の患者の緩和ケア病棟だ。いろいろな出会いがある。例えば自閉症の十八歳、体重一〇〇キロのダヴィッド。自力で歩くことはない。いつも部屋の隅に縮こまり、目と耳を塞いでいる。毎週金曜日、一年にわたりバッハの『無伴奏チェロ組曲』をクレールがそばで演奏するうちに、微笑むようになり、チェロの音を聴くようになり、ピアノの前に座るようになり、ピアノの鍵盤をたたくようになり、チェロと掛け合いでピアノを弾くまでになった。
 緩和ケア病棟に前日入院したばかりのモレッティ夫人、七十八歳。痛みと痛みへの恐怖で全身がこわばり、声をかけても応じない。介助時の寝返りも困難な様子だ。クレールがチェロでグルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』の旋律を奏でると、指がゆるみ手の力が抜けて、額に刻まれたしわがやわらかくなる。何度も目を開ける。介助はスムーズに行われ、看護師たちも音楽によって治療に集中できたと述べた。
 本書のタイトル『シューベルトの手当て』は一人の女性との出会いから生まれた。老人ホームで、包帯を交換しようとする看護師相手に暴れたり噛みつこうとしたりしていたケスレル夫人。クレールはわれ知らず、そばへ行ってシューベルトの『ピアノ三重奏曲第二番作品一〇〇』のアンダンテを奏でた。するとすぐに夫人の腕の力が抜け、叫び声が止まる。目は驚きに満ち、かすかな笑みが浮かんでいた。短時間で手当てを終えた看護師が言った。「ぜひまた、『シューベルトの手当て』に来てもらわなければなりませんね」
 チェロを伴う治療と伴わない治療を比較する「シューベルトの手当て」の臨床研究がサント=ペリーヌ病院緩和ケア病棟で実施された。三年後公表された研究結果は、痛みの軽減一〇~五〇%、患者の不安解消プラス効果九〇%、看護師へのプラス効果一〇〇%。チェロ演奏の治療効果が科学的に示された。
 チェロは音域と音質が人の声に近い楽器だと言われる。シューベルトをはじめとするクラシックや民謡、シャンソン、相手によってはロックやラップまで、クレールのチェロの調べに乗って音楽が患者の心の奥底に届く。その結果、痛みが和らいだり、不安な気持ちが消えたり、忘れていた幼いころの記憶がよみがえったりするのだろう。このような音楽の力を引き出すクレールの治療は濃密だ。患者と演奏者の魂が直接触れ合う瞬間がある。たとえ患者がまばたきでしか意志を表せない病人だとしても、共に歌い奏でて音楽を共有する。自閉症の若者の拳骨で演奏中のチェロに穴が開いても、彼と目を合わせながら演奏を続ける。
 出会った人々とのエピソード、自身や父親の思い出、差し挟まれた自作の詩が、メロディー、リズム、ハーモニーさながら美しいアンサンブルとなり、奇跡のようにも思える音楽の力を聴かせてくれる。各章の冒頭には演奏された曲の名前が記されているから、実際に耳を傾けながら読めば、あなたも音楽の力を実感できるかもしれない。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3627・ 2024年02月10日に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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