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眞鍋惠子評 井上荒野『小説家の一日』(文藝春秋)

評者◆眞鍋惠子
物語の絶妙な余韻に浸る――「書くこと」を巡って奏でられる十曲のストーリー
小説家の一日
井上荒野
文藝春秋
No.3568 ・ 2022年11月26日

■「書くこと」がテーマの十篇からなる井上荒野の短編集である。当然、小説を書くことや作家にまつわる作品もあるが、ほかにもさまざまな「書くこと」が出てくる。メール、付箋のメモ、ツイッター、日記、トイレの落書き、レシピ。「書くこと」の行為を通じて気づかないうちに表れる感情や人間関係が物語を紡いでいく。
 著者は二〇〇八年「切羽へ」で直木賞を受賞。他にも多くの文学賞の受賞があり、映像化された作品も少なくない。また料理好きとして知られ、料理に関するエッセーも執筆。この短編集の作品にも、たびたびおいしそうな料理や食事のシーンが登場する。食べ物をテーマにした短編集もある。
「三月三日
 やばい。
 もう会いたい。
 別れてから五分経ってないね。さくらが乗った新幹線、走って追いかければ追いつけそうな気がするw」
こんなメールで始まる冒頭の作品「緑の象のような山々」は、不倫関係にある遠距離恋愛中の男女が交わす、メールの日付と送信時刻と文章だけで構成される。メールの言葉遣いや送るタイミングがあぶり出す、直接の会話には表れないそれぞれの心の内。二人の思いや思惑が交錯した結果、最後の一通のメールで一気にすべてが決着する。読者は目を丸くしながらも、最後のパラグラフの「私たち」とは誰なのか考え込むことになるかもしれない。
 母の書いた手書きのレシピ集が二十五年後、娘の元に戻ってくる。それを渡してくれた美しい友人、レシピの持ち主である友人の父親、心筋梗塞で急逝した料理家の母、母と同じ料理家として生きる娘が織りなすのが「料理指南」だ。レシピ集に閉じ込められていた母の思いを娘が発見することで、かなわぬ恋をひそかに終わらせる呪文のような言葉が母と娘をつなぎ、新しい日常へと娘の背中を押す。最後のシーンで四十歳の料理家の決然とした爽やかな横顔が目に浮かんでくるようだ。
 表題の小説「小説家の一日」は、著者の父と母、そして父の愛人がモデルとなった二〇一九年の長編「あちらにいる鬼」(これは映画化され、この十一月十一日より公開されている)の登場人物たちを彷彿とさせる人々が核になる物語だ。短編集三番目の「好好軒の犬」も同様に小説家一家の日々を描く設定だが、表題作の小説家海里には著者の姿が色濃く反映されている。彼女は日頃から小説の素になりそうなものを「カーラジオから聞こえてきた言葉、通りすがりの見知らぬ人の言葉、ふと浮かんだこと、夢の記憶」などから拾い集めている。それらがどのように小説を書くことにつながっていくのか。東京から八ヶ岳に移住した作中の小説家が物語を創り出す過程に、著者自身の創作の秘密をのぞき見たようで、なかなか興味深い。
 多種多様な「書くこと」の形を通じていろいろな風景を見せてくれる短編集だが、それぞれの作品の幕切れが絶妙だ。作品を音楽にたとえると、どれも残響がなく最後の音がふっと消えるように終わる。もっと続きの調べがあるのかと思っていると突然音が消えてゆくこともある。余韻が心の中にだけ、こだまするような読後感だ。ハッとする驚き、言葉にするのが難しいうっぷん、モヤモヤとした不安、かすかな明日への希望、取り返しのつかない過去への焦燥感などさまざまな余韻。引き延ばされる最後の響きが実在しない分、作品の最後のページで心の中で聴こえるそれは、読む人のこれまでの人生を反映して人それぞれの響きとなるだろう。
 次はどんな曲だろう、明るい曲か、もの悲しい曲か。大きな音が鳴り響く曲か、メロディーの美しい曲か。そして最後にどんな余韻が聴こえてくるのか。次の物語に耳をすましてページをめくる楽しみを味わってもらいたい。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3568 ・ 2022年11月26日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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