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当時、交換留学を辞退した理由

現在の氣温摂氏三十二度のベルギーは午後になりました。
みなさまにおかれましてはいかがお過ごしなんですから。

今日はまた、ふと思い出して、大学時代のお話なんですから。


中学の頃からずーっと米国に留学したいと思っていて、

その頃から一生懸命に英語を勉強していました。当時は米国留学が単なる憧れのようなものだったんですが、人の夢や希望って、そういうところから始まりませんか。みなさんはどうでしょう。

NHKでやっていた海外ドラマ「ビバリーヒルズ高校白書」「ビバリーヒルズ青春白書」なんかを見ながら、米国でのステューデントライフに憧れたものです。

でもでも、親は留学には猛反対でした。(親と言っても、もうその頃は母は死んでいたので、父親のことなんですが。) その理は不明。尋ねても答えなかったんです。ずるい。

田舎で育ったわたくしは、英語学習に並々ならぬ努力をしました。

今みたいにインターネットなんてないときですしね。よく利用したのがNHKのラジオ講座です。中学一年で「基礎英語」、中学二・三年で「続・基礎英語」、高校一年で「上級基礎英語」、高校二年・三年で「英語会話」、大学生以降は「やさしいビジネス英語」を毎日のように聞いていました。学校で習う英語も、英文法を学ぶには最適だったと思います。(学校英語にはいろいろな批判もありますが、文法はしっかり学べます。) なので、発音や聞いたり話したりする技能はラジオとそれを録音したカセットテープを使って練習し、読んだり書いたりする技能は学校の教科書で練習し、と使い分けていました。中学のときなんて、ネイティブスピーカーが来る時間は一年に一回、45分間のみで、高校のときは何もありませんでした。中学や高校のときに短期間でもいいいから語学留学の機会があれば、もっと自然な英語が話せるようになったかもしれないな、と思ったりもします。何はともあれ、親がそういうことに反対だったので、自分ができる範囲で全てのことをしました。電車の中で外国人の方に話しかけて、英会話を練習させてもらったこともあります。あの頃はとても積極的でした。

高校一年生のときに市・県の青少年海外派遣事業に応募し、合格。

何度かの国内研修の後、同年夏にタイ🇹🇭へ行きました。テーマは国際交流環境問題でした。このとき、タイ東北部のスリン県に行き、学校訪問をして現地の生徒たちと交流したり、現地の人々とともに植林活動をしました。バンコクでは国連機関の一つであるESCAP(The Economic and Social Commission for Asia and the Pacific = アジア太平洋経済社会委員会)にて、環境問題についての講義も受けたものです。

そんなわたくしはますます世界を意識するようになり、国連機関職員など、将来は何か世界を舞台に、世界の人々のために働きたいという思いも出てきました。そのためにはもっともっと勉強して英語が堪能になって、世界で通用する知識も身につけなければならないと思うようになったのです。

大学受験では、

国際政策学部なども受けましたが、結局、外国語学部に進みました。初めて行った国の言葉が学びたいと、タイ語学科が第一志望でしたが、全国的にもタイ語学科はとても珍しくて狭き門。妥協して、アジア系の言語ならと、中国語学科に入りました。一年が過ぎたろ頃、なんとなく中国語学科での勉強に興味を持てなくなってきてしまったんです。中国の政治経済、歴史、故事などなどがありましたが、中国のことだけではなくもっともっと広い世界を焦点に当てて勉強したかったんです。この大学には転入学試験があり、合格すれば他の大学からの転入学可能でした。わたくしはすでに学内にはいましたが、この試験を受けることにし、英語英文学科に移ることができました。合格者は一人でした。

そう、実は英語英文学科に転入学しようと思った理由はもう一つあります。

それは親が「中国学科にいるのになぜ米国に留学したいんだ。中国に留学したいならまだわかるが、米国に行きたいなんて」と留学に大反対だっんです。それならば、英語英文学科に移れば文句は言えないだろうと思ったわけです。

転入学試験のために勉強して合格したにも関わらず、親はそれでも留学に反対でした。大学一年生の頃、中国語学科にいながらも、英語力を下げたくなかったので英語もひたすらに勉強していました。それに、英語科の中学・高校教員免許を取得するために、英語英文学科の授業もとっていました。中国語学科と英語英文学科の授業に加え、教職課程の授業と、それはそれは遊ぶ暇などないほどでした。そんなわたくしの必死の努力など理解もされず、親には英語英文学科に転入してからも、留学を大反対されていたのでした。

18・19歳の自分には米国留学する経済力などあるはずもなく、大学の国際交流センターの掲示板で見つけた留学奨学金制度にはどんどん応募しました。留学資金を集めるために家庭教師もしました。

親は渋々とこう言いました。
「今通っている大学の交換留学制度などを利用するならまだしも、、、」
で、わし、交換留学試験を受けることにしました。

交換留学の試験は学年が終わる3月頃にあり、

合格者はその年の9月から1年間留学します。ですので、大学2年が終わる頃に試験を受ければ、大学3年の9月から1年間留学し、留学中の単位がうまく認定されれば、翌年は大学4年の9月から半年通って、普通に卒業できます。つまり、大学入学から4年間で卒業できます。

でも、一年遅くなった場合は、違います。大学3年が終わる頃に試験を受けて合格した場合、大学4年を半年終えた後の9月から一年留学し、帰ってくると大学5年生半のときになります。(5年生というはありませんが、わかりやすく、ここではこのような表現をすることにしますね。) 留学中の単位は認定されて、7月?8月?に卒業することも可能ですが、卒業論文などが必要な場合にはさらに半年間通い、本来の大学4年生分の残りの半年を続けることになります。一緒に入学した周りの学生たちはすでに大学を卒業しているので、知らない人たちとともに過ごすことになるわけですね。つまり、大学入学から卒業まで5年かかることになります。

わし、大学2年が終わる頃に受けた試験には合格することができなかったんです。でも、諦めきれず、翌年も受けました。すると今度は合格できたんです。第一志望は米国でしたが、第二志望の英国留学をすることになりました。

お子さんのいる皆さん(お子さんがいない方でも自分にもしも子どもがいたらと仮定して)、あなたなら自分の大学生の息子や娘が交換留学に合格したと聞いたらどんなふうに反応しますか。まずは初めに「おめでとう」でしょうか。

わたくしは親に交換留学生に選ばれたことを報告すると、親の一言目は
「お前は一年を無駄にするのか」
でした。

本当に悔しかったな。
面接試験の中では英語でスピーチする場面もあり、それを聞いた教授たちはわたくしの英語力の高さに非常に驚いていました。
「独学でここまで英語ができるようになるとは、大したもんですね。」
と。

もちろん、あのとき「おめでとう。頑張っておいで。」と言ってもらえたなら、その後の不安を抱えながらも、留学していたかもしれません。
さらには、それ以外に、上に書いたように大学5年目を過ごして大氷河期の就職活動に臨むことへの不安もありました。第一志望の米国ではなくて、第二志望の英国へ行くことにも少し抵抗がありました。

21・22歳の大学生なんて、今思えばまだまだ子どもじゃないですかね。経済力もなく、親に頼るしかないですし。現に、大学の授業料は親が出していますものね。

親からの反対に加え、自分に経済力がないこと、さらには大氷河期時代の就職活動などなどが相まって、わたくしは希望や勇氣よりも不安の方が大きくなってきてしまったんですよね。だから、これは、親のせいではないと思います。でも、もしも、親が「おめでとう」と言ってくれたなら、「大氷河期の中でも交換留学という経験は将来にわたって貴重なものになる」と前向きに言ってくれたとしたなら、不安が和らいだかもしれません。

いずれにしても、決断するのは自分です。誰のせいでもありません。

大学の国際交流センターには「辞退なんて前代未聞です。」と怒られましたが、正式に辞退する旨を書面にて提出したのでした。

その後、親にも交換留学を辞退したという報告をしました。
「お父さんのせいか。」
と言うので、
「いや、そうじゃなくて、自分で決めたことだ。」
と伝えたのでした。
でも、本当は親に快く賛成してもらえなかったことがいちばん辛かったんです。だって、親が望まないことをするのって、子としては苦しいじゃないですか。

しかし、さらに悔しいことが起こりました。
それは春分の日におじとおばが、母の墓を訪ねてきてくれたときのことでした。親戚同士で、うちの子はどうとかこうとか、近況報告が始まった中で、親がこう言ったんです。
「こいつは大学の交換留学生に合格して、それを辞退しちゃってねぇ〜。」
ケラケラケラケラ笑い者にしているんです。
それを聞いたおばも、
「怖くなったんじゃないのぉ〜。」
と、ケラケラケラケラと笑い始めたのでした。

そこ違うでしょ、と心の中で思っていました。笑うところじゃないでしょ、と。

おじ・おばの前では我慢して、2人が帰った後に、親に言ったのでした。
「何、さっきの。留学してほしくなかったんじゃないの?? 留学に大反対してたよね??? なんで交換留学を辞退したことに、ケラケラケラケラ笑ってるわけ?? 『留学を辞退して偉かった』って自慢して褒めるところだよね?? いったいどうして欲しいの?? 」

あー、こんなんだったら交換留学しておけばよかった、と思いましたが、もう辞退願いは受理されてしまっているので、どうすることもできなかったし、いずれにしてもそんな荒れた氣持ちで留学しても良いことはないと思ったのでした。

あのとき留学していたら、もっと違う人生だったかもしれないとか、もっと自分に自信が持てるようになったかもしれないとか、いろいろと思うところはありますが、あれはあのときに自分が最善を尽くして出した決断です。だから、誰のせいでもないけれど、考え出すと悔しく思う氣持ちがあるのも確かです。



今日は長文になりましたが、読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

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