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華麗なるキャリアウーマンたち (2,350文字)


1.想像を絶する大都会


オカンの姉である伯母さんは相模原市に住んでいる。

僕が高校を卒業して川崎市にいた頃、何度も泊まらせてもらい大変お世話になった。


オカンが緊急入院した時、真っ先に連絡したのが神奈川の伯母さんである。


僕が小学6年の頃、姉貴と2人で夜行バスに乗り、初めて東京へ旅行をした。

朝、品川駅に着いた僕らを迎えに来てくれたのが彼女であったと薄覚えながら書いている。



「想像を絶する大都会」



徳島の田舎から都会に出てきた姉弟にとって、もの凄い衝撃であった。見渡す限りのビルと車と人の多さに、



「流石は東京やなぁ、、」



と感動していた。

その感動した景色は、なんと東京でも郊外の町田市と県境の相模原市辺りだと何年か後に知ることになる。



伯母さんは若い頃にご主人を癌で亡くされている。そのお葬式にオカンと親父、そしてまだ幼かった弟を連れて参列したらしい。


そこから彼女は女手ひとつで3人の子供を育て上げた。


「女だって強く生きなきゃね」


建設会社で製図を書く仕事をされていたと思う。ご主人を亡くされてから資格を取り、始めた仕事であった。


都会で車を運転し、バリバリ働く伯母の姿はカッコよく、まさしくキャリアウーマンといったイメージがある。


その長女にとても美人で、笑顔の素敵なお姉さんがいた。旅行で訪ねた頃は、某一流企業に就職して間もない時期だったと思う。

僕らを買い物に連れて行ってくれて、服や帽子の値札を気にするでもなく


「似合うね、買っていいよ」


と選んだ物を全て買ってくれたのだ。


今まで自分の服など買ったことがない僕らにとって、衝撃的な出来事であった。

何年か後に社内結婚されて、嫁いでいったと聞いたが、本当のキャリアウーマンとは彼女の様な人であろう。


奇しくもこの年は、バルセロナ五輪で14才の岩崎恭子が金メダルに輝いて、日本中がシンデレラガール誕生と沸きあがっていた。


2.姉貴とオカンの新聞配達


我が家のガンバリウーマンである姉貴が新聞配達を始めた話を書こうと思う。



人に頼まれると断われないのが、うちのオカンである。真冬の新聞配達など成り手がいない。



おまけに購読率90%を誇る徳島新聞であればまだましだ。残り10%の方の新聞配達なんて、このバブル絶頂の時代に誰もやろうとはしなかった。



そんな仕事をオカンの知り合いの知り合いという新聞屋さんが泣きついてきた。



恐らくだが全ての知り合いに断わられ続けて、



「誰でもいいから紹介してくれ」



と粘った結果、オカンに指名が回って来たのだ。



流石にオカンも1人では心細かったのか、姉貴と僕を交代で連れて行くことにした。



朝5時に起き、自転車に乗って近くの新聞屋さんまで行く。新聞と広告が山のように積まれており、配る部数の新聞に一部ずつ広告を挟む。



また雨の日は一部ごとにビニール袋を入れるのが前準備だ。自転車の前と後ろに積み分けて走った。





僕が小学5年の頃だったと思う。とても寒くて非常に眠かった記憶がある。



最初は僕と姉貴が2日に1回、交代でオカンに付いていっていた。しかし僕が、



「眠くて、辛くて、起きられない」



という理由で徐々に出番が少なくなり、最終的には行かなくなった。



その僕の代わりに姉貴はオカンと共にフル出場することになる。



最初の2〜3年は冬の間だけだったと思う。



姉貴が高校に入るころには通年でしかも1人で配るようになっていた。



あの阪神淡路大震災の地震の時も姉貴は自転車に乗って新聞を配っていた。電信柱と電線が大きく揺れて恐ろしかったという話を聞いたことがある。



ちなみにこの地震の時、僕と弟は布団の中で当たり前のように寝ていた。僕はあまりの揺れの強さに、飛び起き、机の下に隠れた。



そして隣で寝ている弟に



「起きろ!地震だ!」



と叫んだが、彼は全く起きる気配がなかった。



その日の朝、学校は地震の話で一色なのに、クラスに1人か2人だけ



「寝ていて地震に気づかなかった」



と話題についていけない子がいた。



多分、弟はそんな中の1人だったと思う。


3.アイロンパーマのヒーロー


阪神淡路大震災の話ついでに、上山という中学3年のクラスメイトの話を書こうと思う。



上山の家はとにかく貧乏で、母親が唯一の稼ぎ頭なのに、あまり働けないといった状況であった。また彼には2人の弟がいてまだ小学3〜4年生だった。


こんな彼の状況を見兼ねたのか、担任は上山がまだ中学生なのに働くことを黙認していたのだ。



あれは中学3年の夏だったと思う。彼は毎日、4時間目の終わり頃になると、ガラガラ〜っと教室の後のドアからコッソリ現れ席に座る。午前中の仕事を終わらせてきたのだ。



そしてチャイムが鳴り、



「腹へったー、いっただきまーす」



とみんなで給食を食べ、昼休みを一緒に過ごす。すると



「じゃあ、行ってくるわー」



と5時間目のチャイムと共に午後からの仕事へ向かう上山。



しかし、彼には悲壮感がまったく無かった。まだ誰も持っていないポケベルを見せて自慢したり、アイロンパーマをかけて大人感を演出していた。


僕らが中学3年の1月に地震があり、翌2月中旬頃だったと思う。彼の働く土建屋が神戸の震災復旧のボランティアに行くというので上山も参加していた。


そして校長先生は、そのことを卒業間近の全校集会で


「上山君ちょっと前に来なさい」


と壇上に立った上山をまるでヒーローのように褒め讃え、校長はボランティアや仕事のことをみんなの前で自慢げに説明した。


今まで担任の先生が中学生を働かせているとひたすら隠していた事が、これで学校公認になったという話である。  

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