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ソングライティング・ワークブック 第82週:ジャンルとテーマ:ソーシャルコメンタリー(2)

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曖昧さを利用する

「雑な季節の変わり目に」

SNSで誰かが「最近季節が雑な変わり方をするようになった」と書いていた。面白い言い方だと思った。確かにここ何年か春と秋がないような、急に暑くなったり寒くなったりすることが多くなったような気がする。あるいはそれは気候危機を意識するようになったから、そう感じているだけかもしれない。この言い回しを盗んで何か書いてみようか?

雑になった
季節の変わり目が
雑になった
あなたの嘘が

ここまでは何の話をしているのかはっきりしない。「ははあ、『あなた』の心変わりについての歌なのかな?」と思う人が、たぶん多いだろう。ちょっと続けてみよう;

その雑な噓に拍手する人たち
嘘が雑になればなるほど
拍手も大きくなる
耳をつんざくほど
みんな死んでしまえ
埋立地のゴミとして沈め
私の歌も雑になる

10月も下旬になって
やっと来た秋晴れの日
パチ パチ パチ パチ
ヒートテックの拍手鳴りやまぬ
ザツ ザツ ザツ ザツ
何の音?
乾いた空に響け
皆殺しじゃ

どこがヴァースでどこがコーラスなどということは考慮していない。走り書き。何のことを歌っているのかわからないけれど、なんとなく「私」は怒っているというのはわかる。ベタな歌詞にかっこいいヴォーカルアレンジという歌も流行ってるみたいなので、こんなのもありだろう。三度の飯でもないよりええのよ...

私の中の検閲官

私の中には検閲官も評論家もいるし、臆病者なので言葉には苦労する。また、書きながら「言いたいこと」が逃げていく、そんな感じを持つ人は多いと思う。そんなときは、その「抱えている何か」の周りを巡るように書いていけばよいのかも。それは同時に「本当に言いたいこと」を探す過程でもあるかもしれない。

本物の検閲官

1970年、軍事独裁政権下のブラジル(1964年のクーデターから1985年まで続いた。冷戦のころは合衆国の支援でこのような独裁政権が南米やアジアにいくつもできた。多くは厳しい言論統制、拷問、処刑を伴う弾圧と経済成長政策の抱き合わせだった)から、イタリアに半ば亡命していたChico Buarque(シコ・ブアルキ)はこんな歌を書いた。

Hoje você é quem manda
Falou, tá falado
Não tem discussão
A minha gente hoje anda
Falando de lado
E olhando pro chão, viu

Você que inventou esse estado
E inventou de inventar
Toda a escuridão
Você que inventou o pecado
Esqueceu-se de inventar
O perdão

Apesar de você
Amanhã há de ser
Outro dia
Eu pergunto a você
Onde vai se esconder
Da enorme euforia
Como vai proibir
Quando o galo insistir
Em cantar
Água nova brotando
E a gente se amando
Sem parar

Chico Buarque, "Apesar de Você"

ポルトガル語はできないけれど、英訳を参考にざっと訳してみるとこうなる;

今、命令を下すのはあなた
俺がこう言ったのだからこうしろと言う
話し合うこともなく
今ではみんな
あなたのことを陰で話している
下を向いて わかるかい?

この国をあつらえたあなた
すべて真っ暗闇に
そして何が罪であるかを決め
許すことを忘れたあなた

あなたはそうでも
明日は違う日が来るよ
そしたらあなたはどこに隠れるんだい?
みんなの幸せから逃れて
ニワトリが強く歌い始めようとするのを
どうやって禁止するんだい?
新しい水が湧き出て
人々はずっと愛し合うんだ 

Buarqueはブラジルの検閲当局に「この歌は恋人同士の諍いについての歌だ」と説明して提出したらしい。通らないだろうとあきらめていたけれど、本人も驚いたことに通ってしまった。当局は当初この歌の意味を理解していなかったということだろう。このシングル盤レコードは10万枚売れた。曲調は軽快なサンバ音楽で、この曲のヒットはラジオでサンバがかかるのを流行らせたきっかけにもなった(お祭りの音楽の流行はワールドカップ優勝とも関係あったのでは、と思う。それこそ「パンとサーカス」だったのだろう)。翌年にはClara Nunesがカバーして歌っている。彼女もこの歌を男女の諍いの歌だと理解(誤解して?)歌っていた。その後すぐ1971年、ひとりのジャーナリストが「自分の息子はこの歌をまるで国歌のように歌っている」と書いたのが当局の目に留まり、当局は歌詞の内容を「理解」して、公衆の前での演奏、放送を禁じ、残っていたレコードは破壊された。

一人称による語り/第三者による語り

ソーシャルコメンタリーはいろいろな形でなされる。一人称で「私」の視点からストーリーを語る場合も、第三者の視点、または「神の視点」でストーリーを語る、そのどちらもあり得る。また、一人称でも、「私」イコール「歌い手」の場合もあれば、歌い手が誰かに扮するという体裁をとることもある。これはほかのジャンルでも同じことが言える。次回はそのあたりから始める。








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