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長寿は、喜ぶべきことかー介護の日々

「長寿」って、「寿(ことほぐ)」という文字が入っているのだから、基本的には喜ぶべきこと、佳きことなのだろう。でも、自分が還暦に近づくころから、それって本当かなと真剣に思うようになった。

きっかけの一つは父の死だった。
父は東日本の大震災の年の6月に亡くなった。その数年前から施設(老健施設)と病院を行ったり来たりで、亡くなった2011年には認知症もかなり進み私のことも誰のこともよくわからなくなっていた。
そんな父は、あの3月11日にも入院していて、かなり揺れたであろう地震についても気づいたかどうか... しかしその時は、父が長年誇りをもって働いてきた会社が大きな事故を起こしていた。もし認知症ではなくて病院のベッドの上でこのニュースを知ったら、どんな気持ちになっただろうかと思うと、むしろ認知症でなにもわからないほうが幸せではないかと思ったのだった。
このとき、ああ長生きしても、そのために、いやな目に会うことがあるのだなあと思ったのだった。

そして、母親。
訪問看護の看護師さんも通院している病院の主治医の先生も、母のことを皆、元気で立派だ、お化粧もして綺麗にしていて、しっかりしている、と褒めてくれる。
そういわれると、母も嬉しそうである。
私も、90歳という年を考えれば、自分の身の回りのことはなんとか自分で始末をするし、なかなか意志の疎通も難しいところはあるものの食べたいものを食べられて、テレビのチャンネルを選ぶ母は大したものなのだろうと思う。
それでもやはり思ってしまう、長寿って本当に幸せなのだろうかと。

毎朝、起きるといつもいつも血圧の高さや数々の不調を訴えて、座り込んでいる。
寝ているときはトイレに何回も起きるので、夜になるとその心配がアタマのなかの大半を占めてしまう。
朝食も昼食も、場合によっては夕食も、私が適当に作ったものを食べる。それはそれでこちらも助かるが、たまに「何が食べたい?」と聞いても、最近はあまり思い浮かばないようだ。
あとは、テレビを見たり、時々、思い出したように部屋のなかを箒で掃いている(母は今の家を新築したころから、綺麗好きだった)。
あとは、疲れたと言って昼寝、夕寝をしている。夕方の5時くらいに目が覚めたときなどは、外の様子をみて翌朝と思うこともあるようで、そんなときは、自分は頭がヘンになったと嘆く。
そして、最近は私の様子をうかがうことが多い。私に気を遣うというよりは、私が不機嫌なのか、そうでないのかを見ているのだろう。

身体のいたるところに不調を抱えて、外出はおろか家の中でも動くことがままならず、いらいらしている。以前は親しかったフォークダンスや体操クラブの面々も、あるいは亡くなり、あるいは遠くに引っ越し、あるいは高齢でやはり外出できずに疎遠となってしまう。
電話がかかってくるわけでもなく、またかける相手がいるわけでもなく、テレビと微睡みで1日が過ぎていく。
こんな毎日も、若くて、いつでも世界と再びつながれるのであれば、悪くないもしれない。
でも、日々衰えていくなかで、こんな生活が幸せなのかどうか?
意味がないとは言わない。なぜなら人が生きるということは、それだけで何かしらの意味があるはずで、なにかアウトプットがなければ人生には意味がない、なにか意志の力で動かないと意味はない、という考えは、それはあまりに「機械」的だからだ。
確かにAIには、アウトプットやアクションが必要で、それがなければ存在意義がないが、人間はそうではない。

それでも、長寿の母は、いま幸せなのだろうか?
それは、寿(ことほ)がれるものとして、条件なしに受け入れることなのだろうか?
私には、どうもそう思えない。
自分があと何年生きられるかは、わからない。それでも今の母のような状況におかれたら、そこで自分が幸せを感じられるとは、とても思えない。
それとも、私も90歳を越えれば、そのなかで何か生きる意味を見つけているのだろうか? わからないことばかりだ。
これとて、もちろんある程度健康でお金にも困らず、災害にも合わないという、いまどきはそれだけで「幸せモン」という状況が続くという前提の話だけれども。

「長寿」って、本当に良いことなのだろうか。父の死、高齢の母親との生活を経て、いま、しきりにそんなことを考えてしまう。

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