ナンパ師になりきれない男③
伝説のナンパ師アレハンドロ・ハリマオ曰く。
「すぐに成果が出ないからといって諦める者は愚かである。必ず攻勢のチャンスは訪れる。それまでは関係を深める準備の時と心得よ」
その言葉を思い出し、僕は自分の心に起きた動揺を静める。
ここで焦っても得ることはない。何事もないかのように振る舞うのだ。
僕は自分にそう言い聞かせて言葉を続けた。
「そうなんだ、それは良かったね。ちなみに、いつから付き合っているんだい」
「ヒロさんと出会う前の週くらいに会ったんですが、ヒロさんと会った二~三日前に彼から告白されたんですよ」
「じゃあ、付き合ってばかりのラブラブカップルなんだ」
「そうですね。自分が守られるだけじゃないことも伝えたんですよ。私、つい泣いちゃったんですけれども彼受け止めてくれて」
「そっか。素敵な彼氏だね」
「でも、私が泣いているのに彼ったら求めてきたんですよ。'こんな状況なのにするんだ'ってびっくりしちゃいました」
「彼としては多恵ちゃんともっと絆を深めたかったんじゃないかな。それで、愛情を確かめようと焦っちゃったのかもね」
「それにしてもひどくないですか」
「まあ多恵ちゃんの気持ちもわかるよ」
その後も僕は多恵の彼との話を一通り聞いて、必要なアドバイスをした。
一通り話を終えて帰ろうという時に多恵はつぶやいた。
「ヒロさんが彼の話をした時に、受け入れてくれなかったら次はないかなと思っていたんですよ。でも、ヒロさんがお話を聞いてくれる人で良かった」
どうやら僕は多恵の試験を無事クリアできたようだ。これだから女は怖い。平気な顔をして男を試してくる。
話を聞いている限り、多恵の彼氏は相手の気持ちを理解するのが苦手そうだ。だったら、早晩上手くいかなくなって別れる確率は高いだろう。
だから、焦ることはない。それまで僕は多恵の善き理解者として二番手の位置を確立しておこう。そして、多恵が彼氏と別れた時にその隙間を埋めるのは僕だ。彼にはせいぜい僕の頼り甲斐を実感させるための前座としてがんばってもらおうじゃないか。
これまでの僕の経験から考えても関係が崩れる速度は関係が出来る速度と相関する。付き合うまでの期間が短いほどすぐ別れる傾向にある。
それに今日、多恵の学習能力の高さがわかった。僕は問題があった時に克服しようと努力できる人間とパートナーになりたいと思っている。彼女とは一夜限りではもったいない。ならば、僕はこの状況をせいぜい利用させてもらおう。
こんな時、未熟なころの僕であれば今の彼氏の悪口を言うなんて過ちを犯していただろう。
しかし、僕はある時シミュレーションしてみた。'もし自分が一度は愛した相手の悪口を聞かされた時に、心はどう反応するのか'ということを。
付き合ったばかりならば、その言葉は幸せの中で感じるちょっとした不満である可能性が高い。そんな時に恋人をよく知りもしない人間が非難した場合、その相手は「敵」とみなされる。
つまり、相手に対する愛情が残っているうちは彼氏を責める言葉は控えた方がいい。かえって今の彼氏との結束を強めるリスクがある。
こんな状況の時はひとりにこだわらず、他の相手と同時平行をするのが良いだろう。
こんなことを表立って言ったら、世間から非難されそうだ。とはいえ、今のところ多恵と付き合っている訳ではないから、貞操義務はない。それに僕の場合、過去の経験から考えるとひとりの相手にのめり込み過ぎてしまう傾向にある。
「この人しかいない」という気持ちは両思いであれば結構なことだ。しかし、片思いの時はストーカーに発展しかねない。相手と適切な距離感でいるためにも、これは僕にとって必要悪だ。
気分転換も兼ねて、僕は直接帰らずにいつも行くバーへ足を運んだ。
ビルの狭間を通り、看板もないドアを開ける。そこにある狭いエレベーターホールは、この世界とは別の場所にいざなってくれそうだ。
エレベーターはゆっくり上がっていく。たどり着いた空間は薄暗い。キャンドルの灯りとレトロなジャズが高ぶった心を静めてくれる。
案内に従ってカウンター席に腰をおろしたら、中にいるバーテンダーが僕に声をかけてきた。
「いつもありがとうございます。今日、新しいジンが入ったんですよ。試されますか」
「じゃあ、ジントニックでお願いします」
運ばれてきたグラスにはゴロっとしたレモンピールが入っていた。グラスを鼻先に寄せる。すっきりした香りで疲れが和らぐ。口をつければ、透明な液体はさらっと喉まで落ちていった。
僕の状態に合ったものを選んでくれているんだろう。バーテンダーの心遣いに感謝して、僕はぼんやりグラスをもてあそんだ。氷がたてる音が心地いい。その時、女性の声がした。
「それ、美味しいんですか」
僕は声の方へ目を向ける。好奇心旺盛そうな瞳の女性がこちらを眺めていた。やわらかいグリーンの服で、シャープな眼鏡はしかるべき処にあるといった風情だ。
「美味しいよ。ちょっと試してみるかい」
僕はグラスを彼女の方に寄せる。彼女はそれに口をつけた。まるで水を飲む小鳥のようだ。
「確かに。これいいですね」
彼女は新しい発見をしたかのように目を見開く。僕は笑顔で返した。
「いいでしょ。お酒が好きなのかい」
僕は彼女を誘ってテーブル席に移り、お互いに自己紹介をした。彼女は結城志穂というらしい。
「私、大学で生物工学の研究をしているんですよ。植物ごとの特徴が知りたくていろいろなお酒を試しているんです」
「なるほど、研究熱心なんだね」
僕は挑発してみる。
「ちょっとバカにしてませんか」
彼女は子どもっぽく口を尖らせた。だが、悪くない感触だ。
「ごめん、ごめん」
僕はあやして彼女の許しを請う。
「植物は研究と関係なく好きなんです。この前も高知まで有名な研究者の植物園を見に行ったんですよ」
「そんなに植物が好きなんだ」
「子どもの頃から好きなんです。このお店って飾ってある花も面白いですよ。例えば、あの花はバラ科の特徴があってーー」
志穂は僕にはわからない専門用語を交えながら延々と語り続けた。今は彼女のターンだ。思う存分話してもらおう。
ひとしきり話しきったところで、志穂は僕の顔色を伺う。
「すいません。なんか一人で話し過ぎちゃいましたよね」
「いや、面白かったよ。それにしても、見ただけでそんな事までわかるんだ。すごいね」
「いつも見てたらわかりますよ。'何でこんな風に進化したんだろう'って特徴の意味を考えたりするのが好きなんです」
「へぇ、そうなんだ。ちなみに、僕って女の子よりも手がちっちゃいんだ。それも意味があるのかな」
「えぇ?さすがに女の子より小さいってことはないんじゃないですか」
「本当だよ。じゃあ、試しに手を重ねて比べてみようか」
「いいですよ」
お互いに手を出して、重ねてみる。
「ほんとだ。私よりちっちゃい」
僕は何も答えず、志穂の目をのぞき込んだ。そして、ゆっくり手を握る。彼女は応えるように軽く握り返してきた。
幸いなことに明日は土曜日だ。朝までじっくり時間はある。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?