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まだ【音読】で消耗しているの?【中国語/英語】〜語学力の評価関数は自分で持とう〜

音読は、私が考える語学力を高めるという観点では、最も効率的な学習法であると思う。

しかし、ネイティブみたいに読めるようになるため、音読の精度を高めることが目的になるのは本末転倒だ。

例えるなら、ゴルフの打ちっぱなしの練習場で、ゴルフコースデビューをせず、ひたすらボールが曲がらないように真っ直ぐ飛ばす練習をしているようなものだ。

その人を否定するわけではないが、外にはもっと広がりのある面白いゲームがあることを伝えたくなるだろう。

いつまでも、鍛冶屋の頑固親父みたいに剣を研いでいてもしょうがない。

ドラクエでレベル100までレベル上げするまで、ボスを倒しにいかないようなものだ。

私は、音読を学習の中心に置くことをこれ以上ないくらいに推奨している。

前のnoteでも紹介したが、音読には第二言語習得分野における科学的根拠も(それは要吟味なのだが)あるのだから、「アニメみて勉強すりゃいいよ」などに比べて明らかに信頼できる。

ただ、「なぜ音読をやるか?」という目的意識をはっきりと持ったほうがいいと考えている。

私は大きく2つあると思う。

1つは、長めの発話を自然な発音でいえるようになるため、口の動きや息の出し方、リズム、などを体に染み込ませるため

2つ目は、単語やフレーズを“話せる、聞ける”レベルまで落とし込むため

である。

その他にも読解に効果があるとか、いろいろな効果は期待できるが、自分が必要な学習効果を狙ってトレーニングを行うことが重要だ。

こうした目的を忘れて、ネイティブみたいな発音ができないからといってただただ音読を繰り返すのは愚かなことだと思う。

某有名アニメ映画風に表現するなら、

目的「これってもしかして……」
手段「私たち……」

目的&手段「入れ替わってるー!?」

という事態になってしまう。

一定のレベルで読めるようになったら、その後は何らかの特定の目的がないならやらなくていいと思う。むしろ音読でうまくできないとダメみたいな空気感を作ることは、言語行為のために学ぶ真の語学者にとって害悪ですらある。

それよりは、はやく実世界で中国語を使うゲームに参加すべきだ。

ウィトゲンシュタインが後期の著作で述べたように、言語の原型は単語だけでも成り立つ。

大工が「石!」と作業中に言えば、それは「石を取ってくれ」という意味で聞き手に伝わる。

中国語学習を始めて第一日目の人が、ni3hao3(ニーハオ)と挨拶すれば立派な言語行為だ。(ちなみにni3hao3は意外と発音は難しいが)

今ならhello talk, good nightなどですぐに中国語を話せる人が見つかるし、お金を払えば25分300円程度でネイティブと会話できる。

また、中国語でドラマやドキュメンタリー、映画をみたり、本やネット記事を読むことも実践である。

こうした意味行為というのが言語を学ぶ本質的な意義である。

中国の最新テック事情について理解したい、とか、中国の文学作品を読んでみたい、というのであれば200時間も学べば辞書を片手に意味が取れるだろう。

(最初は意味を確認できるネイティブのサポートがあったほうがいいが、これはネットで相互学習仲間をみつけたり、オンライン中国語を利用すれば費用もそんなにかからない)

また、だからといって、中国人との会話を「勉強」と捉えるとまた同じループに入ってしまう。

オンライン英会話やオンライン中国語などで、毎日なんの目的もなく何となく勉強のためということでネイティブと会話することは、とても虚しい。(蓄積した“話せる、聞ける”単語やフレーズを瞬発的に使えるようにする等、目的あるトレーニングとしてならそれはそれで有益だが)

なぜなら、

ネイティブとのコミュニケーションというのはもはや「本番に対する準備」というような勉強ではなく、

そもそも「目的それ自体」であるからだ。

その機会で、ネイティブに根掘り葉掘り聞きたいことをヒアリングすればいいし、自分の意見に対する反応をもらえたければ、沢山自分の考えを述べればいい。

HSKなら4級にしっかり受かっていれば、これができる基礎力はある。

質問を聞き取ってもらえなければ、文字で打てばいいし、或いは発音を勉強しようというきっかけになる。また、聞き取りができなければ、「文字を打ってくれ」と頼めばいい。わからない単語はコピペして辞書でしらべればいい。

だから、

もし語学をやっている人で、執拗に音読の発音をきれいしたいなら、なぜやっているか自覚したほうがいい。

多くの人はとりあえず、何に使うかわからないけど、とりあえず中国語力上げたいからネイティブみたいな発音を目指そうとなる。

上を目指すのは構わないが、自分が「目的もないのに、とりあえずやっている」というその無目的さは自覚しておいたほうがいい。

法的な問題を解決したり、行政訴訟したいわけでもなくなんとなく司法試験を目指して司法の世界に入り、全く仕事を獲得できない悲しい弁護士のようだ。

もちろん、その「作られた評価基準の小さなゲームで上を目指すという道」を選ぶならそれは個人の自由だ。音読だって、その精度を高めるスポーツとして取り組むというのもそれはそれで充実感があり、よいと思う。

でも、私はそのような小さなゲームで上を目指しているよりも、人間の言語行為というもっと広大なゲームで語学力を使っている人のほうに魅力を感じる。

ネイティブ並の発音ができるが全然実践していない人よりも、発音は悪くとも、中国人向けに商売をやりたいから、直接自分で試行錯誤しながらなんとかコミュニケーションをとろうとしている人のほうが立派だ。

いずれにしても、肝心なことは自分がやっていることの評価軸は自分で持とう、ということ。別にネイティブ並の発音を目指すことに憧れて、独自の評価軸でそれをやるなら全く問題はない。

ただ、なんとなく音読ばかりやってるくらいなら、中国語を使う実践を何かしらしてみるのがいいと思う。モチベーションを起爆する何か体験ができるかもしれないし、語学力の課題が明確になるかもしれないから。

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