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モチベーションの本質(知行合一)
モチベーションとは何か?
現象学的に考えると、われわれが普段使う「語」「概念」の本質は経験の集約である。
この概念も、ある経験をある動機の下で他者と共有することが蓄積し、誰もが理解可能な概念となった。
現代の日本でいう「モチベーション」とは、要するに次のような経験が基となっている。
A. 何かの目標を立てて、やるべきことの計画をしたが、実行できなかった
B. 何かの目標のために沢山行動できた
例えば、Aなら、健康のために毎日ジョギングをしようと決めたが三日坊主に終わったというようなこと。Bなら、大学受験でいい大学に入るため自分から進んで沢山勉強をして、結果として第一志望に進学できた、というようなこと。
こうした両方、またはどちらの経験から、われわれは、その原因となるものを脳内物質や、心の状態のようなもに帰して対象化する。それが、「モチベーション」と呼ばれている。
これは幻想的なものである。なので、「モチベーション」なるものは、そういうものではなく、ただ、何かをやるべきことを実行できたり、できなかった経験があるだけである。
陽明学の「知行合一」という考え方がある。以下辞書より。
陽明(ようめい)学の命題の一つ。知ることと実行することとは本来二つには分けられない、とすること。王陽明(守仁(しゅじん))は、朱子学が真理の認識や道徳的是非の判断(知)を先にしてその実践(行)を後にする知先行後論に傾きがちであったことや、明(みん)代の俗学が実践を伴わない空論に流れたことを批判して、知行合一を主張した。そのため、知っているだけで実行しないのはまだ本当の知とはいえない、とし、実践のうえで知と行とが一致することを要請する実践重視・体験重視の立場(事上磨錬(じじょうまれん))をとっている。
知っているだけで実行しないのはまだ本当の知とはいえない。
この場合の「知」とは学問的な知識ではなく、自分が何をすべきか、というような実践的なことだ。
「〜がよい」と口では言っているのに、行動していないのであれば、それは知っているとはいえない。
表現の問題でもあるが、要するに本当にその対象に価値を置いているとはいえない。なぜなら、本当に価値があると思っているなら、やっているはずだからだ。
先の例で、健康のためにジョギングは、モチベーションがなかったのではなく、本当に必要だと思っていないのだ。
そして、大学受験の例ついては、その重要性を認識して、行動したというだけの話。
何か目標があり、そのために行動してみたが、できなかったからといって、自分を責める必要はない。
その価値が身体レベルまで信じきれていない、ということ。
ではどうすればいいのか?
気楽にやればいい。
われわれ各個人の価値観は異なるので、何に価値を感じるかはバラバラだ。
今そういうことで悩んでいる人も、今までに沢山の行動をしてきたから今がある。
モチベーションという幻想にとらわれず、自分が何に心の底から価値を感じているかを吟味するとよい。
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