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効率的に繋がることの後ろめたさ

ツイッターなど、不特定多数と世界を舞台に瞬時に知り合い、コミュニケーションできるサービスがある。

こういうサービスで、人と繋がることに何か、後ろめたさを感じることはないだろうか?

特に、ツイッター上で飲み会やイベントを募集して、参加するようなことは、何か後ろめたい。それをやるのが、後ろめたくないものもあることがある。それも興味深い。主催の動機によるのかもしれない。

この後ろめたさは何なのか?

この事態の本質は、効率的に、同じ利益や関心を共有する人と、マッチングすることだが、それがよくないのだろうか?

そういう関心で集まった人たちは、その利益や関心がなくなれば、マッチングのスピードと同じように、瞬時に霧散することが予想されるからか?

楽して手に入れたものは、簡単になくなるのか?

あと、そこで集まった人に対しても、しょっちゅう同じように人と繋がってるんでしょ?私なんでそのうちの1人にすぎないのね?という「マディソン郡の橋」なみの切なさがある。

もう少し考えてみたい。



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