見出し画像

「ありがとう」教

「ありがとう」と感謝が溢れる社会が素晴らしい!

というような意見を言う人はよくいる。感謝を忘れずに!も同じ。

私もこれに同意するが、どこかで何か違和感を感じていた。

何に対しても、「ありがとう」を連呼する人がたまにいる。たぶん、そういう安売り的な「ありがとう」に違和感があったのかもしれない。やはり、言葉はその本質を理解し適切な場面で使うことで人の中に深く入っていくだろう。

では、ありがとうの本質とは何か?つまり核となる意味。

ある人が、「ありがとう」は「有難う」、つまりあることが難しいことに対して使う、と言っていた。みんな一度は考えたことがあるだろう。

これを聞いて「はっ」と思った。

「ありがとう(あることが難しい)」というのを発するのは、その発言者自身の観点で生じさせることが難しいものを表現するときに使うのだ。ある行為が、自分自身では到底生じえなかったこと。それは何も、物事をあげるとか親切にしてもらうとかいうことだけではない。

コミュニケーションの中で気づきを与えてくれたり、それこそただその人がいる(ある)だけで感じる何かでもいい。

もう少し深く考えたい。

人はみな偶然の文脈で、偶然の身体を持ち生まれてくる。それは神秘的で理由や原因を問うことはできない出発点だ。

そこから時空において世界の中で社会と相互コミュニケーションを繰り返し、独自の価値観や世界観を形成していく。こう考えると、ある一人の人間の「言動」とは、それまで生きてきた時空における経験の集積を社会にフィードバックする営みといえるのではないか。

そして、その彼(女)の「言動」も2つに大きく分類できる。1つは彼自身が一次的に経験したものに関するもの。一次的な言動だ。2つ目は他人から聞いたこと、本やメディアで知ったことなど二次的なもの。前者は、彼(女)しか知らないオリジナルなことだ。そして、「言動」とは言語的なもの以外にノンバーバルなあらゆるシンボルを含む。

いきなり結論に行くと、

「有難う」の本質とは、この前者の「一次的な言動」に対する態度なのではないだろうか?

こう解釈すると、一般的な「ありがとう」のイメージである贈り物や親切、助け、などに限らず、ちょっとした意見や相槌、引いてはただその姿を見せてくれているだけで何かしら「私」が知らないことを提供してくれている、といえる。これは私では知り得なかったこと。つまり、これが「有難う」の本質なのである。

相手が怒ってきたり、嫌なことをしてきても、それは世界をより知るための契機として「有り難い」のだ。

なんか宗教のようになってきたが、私はこの精神でいきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?