見出し画像

原子も電子も素粒子も、言語(シンボル)を通じてたら乗り越えられない

古代ギリシア時代から、世界を理解するためには、その対象単位を見つけることで、解き明かそう!というのが主流にある。

現代にでは、それが原子や、さらには素粒子まで追い詰められている。

それで世界が説明できるだろうか?

ミクロな世界を追い詰めていくと、一般的な因果関係が成り立たないことが知られている。

それはなぜか?

1つの本質的な仮説がある。

それは、われわれが、言語、つまりシンボルを通じて、世界を把握しようとしているからだ。

言語=シンボルの本質は、同一性である。プラントのいうイデアだ。

それは、2つ以上の対象の共通項を括って同一とみなすことに本質がある。

つまり、目の前の椅子も、大塚家具の椅子も、ikeaの椅子も、nitoriの椅子も同じく「椅子」で括れるのは、その本質的なゲシュタルトで括っているからだ。

でも、厳密性を追い詰めていくと、これではだめだ。

世界には同じものなどありえない。

目の前にホチキスの芯があるが、どれも同じに見える。

しかし、どれも、原子や素粒子レベルでみたら違うに決まっている。
そもそも存在する場所が重なっていないかぎり、その周りから受ける影響を考慮したら、同じになるわけがない。

言語的な世界把握が無理だとすれば、他にどんな方法があるだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?