押韻詩論のための覚え書き②:アクセントを実現するための単位
こんばんは。Sagishiです。
わたしの『詩歌』マガジンでは、日本語の「押韻定型詩」を掲載しています。日本語で押韻定型詩を書くというのは、かなりマイナーな試みです。
1 日本語の押韻定型詩の基礎
そもそも日本語の押韻定型詩の歴史は浅く、明確に意識して書かれたのは九鬼周造『日本詩の押韻』(1931年)が初めてです。その後、『マチネ・ポエティク』(1942~48年)、飯島耕一『定型詩論』(1991~94年)などの変遷を経て、最も完成度は高い詩集に鈴木漠『遊戯論』(2011年)がありますが、未だアートフォームとしてスタイルの完成には至っていません。
わたしが先人たちの日本語の押韻定型詩を読むと、感嘆するような作品も多くありますが、どこか「ぎこちなさ」を感じます。これは日本語ラップが当初そうであったのと同様で、押韻部分が浮いてしまいぎこちない、日本語として文章がおかしい、そう感じさせてしまう問題がありました。また、押韻の音節数の少なさや響きの弱さにも課題を感じていました。
わたしは当初、これらの問題を解決するために日本語ラップの押韻スタイルを持ち込むことに熱心になりましたが、どういうわけか日本語ラップの手法で、詩歌で押韻をすると上手くいかないことが多々ありました。適切なライムの選択ができないように感じたのです。
わたしは、実作よりも先に「押韻理論」を建築する必要性を突きつけられました。どういうふうにすれば、完全な押韻になるのか、響きを定量的に評価できるのかを、客観的にすることが求められました。
そして音声学の知識を得ることで、日本語の押韻理論に音節やアクセントの概念を持ち込み、『日本語の完全韻・不完全韻』の定義を整備することができました。
その結果、新しく書いた押韻定型詩は理論的バックボーンが強力になり、完成度を飛躍的に高められました。わたしは、わたしが書く押韻定型詩に「ぎこちなさ」を感じることも、「押韻の質と量」に不満を覚えることもなくなりました。
2 アクセントを実現するための単位
しかし、わたしは実現できていないことがあります。それは日本語の押韻定型詩に「音節数」と「アクセントの規則」を盛り込めていないことです。
英語のRhythmed verseや中国語の漢詩には、「押韻」「音節数」「アクセント」に関する三つのルールが含有されています。しかし、わたしが日本語の押韻定型詩で実現しているのは「押韻」だけです。
そのため、わたしが書く押韻定型詩は、音節数において「自由」ですし、アクセントにもルールがありません。それは果たして真の意味で「押韻定型詩」なのか、という疑問が出ても不自然ではありません。
しかし、Rhythmed verseや漢詩が「押韻」「音節数」「アクセント」のルールを同時実現できるのは、それが英語や中国語の言語特性に沿っているからだと最近直感しました。
英語や中国語は、「アクセントを実現するための単位」に音節数の制約があります。英語はフットであり、中国語は文字が実質的に「アクセントを実現するための単位」です。
英語の文章で10フット(だいたい20音節程度)あれば、ほぼ必ず10個のアクセント(ストレス)が存在します。中国語の文章で10文字(10音節)あれば、こちらもほぼ必ず10個のアクセント(トーン)が存在します。つまり、英語や中国語は音節数とアクセントに相関があります。
しかし、日本語にはこの制約がありません。日本語が10文字あるいは10音節あるとき、そこにどれだけのアクセントが存在するかは不明です。10文字で1個のアクセントだけかもしれないし、3個4個あることもありえます。しかも厄介なのは、この時に日本語の場合は文字数に上限がないことで、理論的には10兆文字で1個のアクセントだけにすることも可能です。日本語は音節数とアクセントに相関がない言語と言えます。
よって、詩歌の一行を構成する時に、英語や中国語は音節数を決めるとアクセント数も自然と決まります。しかし、日本語ではできない。日本語で詩歌の一行の構成に、特定の位置でアクセントを実現するというルールを盛り込むのは現実的ではありません。
3 短歌に対する推論
わたしの上記の考えでいくと、短歌の句が5音や7音であることは、アクセントとは関係がないところで決まっていったことになります。しかし、そうであればなぜ短歌の句が5音や7音になっていったのでしょうか。
日本語でアクセントを揃えることは非現実的であったとしても、短歌の句で実現されているものが「何なのか」を適切に抽象化できれば、詩でも実現ができるようになるかもしれません。
ここからは頭の体操です。
短歌の世界では、基本的には促音や撥音などの特殊モーラを1音節として数えます。つまり、日常会話とは切り離された空間になっているはずです。この時に実現しているものが、音節だけではなくてイントネーションもそうなっていると仮定するならば、適切な理解が可能であるように感じます。
短歌の句というのは、意図的なモーラリズムのイントネーション区間を整備し、それを5つ並べている世界、アートフォームなのかもしれません。
そうなると、抽象的に実現されている短歌の世界というのは、最終的には長短律なのかもしれない、とさえ思います。
これがストレートに詩に応用できるとは思いませんが、参考にはなります。長短律が日常会話の世界でどれぐらい効果的なのかは、よく検討が必要そうです。
詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/