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ニューヨークの医師たち(の一部)

 そう言えば、大腸内視鏡検査のお誘いメールがまだ来ません。前回の検査から5年経ったならクリニックより、「そろそろ次の予約ですよ」と通知がくるはずなのですが、まだ時期が来ていないのでしょう。
 パンデミックがあったりして、時間感覚(特に年次)がぼんやりになっています。

 アメリカでは、50歳を超えたら大腸内視鏡検査を開始することになっています。もちろん強制ではなく、推奨です。その年齢に達したら、費用を保険会社が持ってくれるというだけのことです。
 ・・・だけのこと、と言っても、高額な保険料を支払っていながら、おかげさまで使い道がないならば、年に一度の健康診断や、大腸検査、マンモグラフィ、骨密度検査くらいは「はい、無料で受けさせていただきます」ということになるわけです。

 大腸内視鏡検査は痛いし、事故もあるし、後日まで不調が続くことがある、云々でできれば受けたくないという声を日本でよく聞くのですが、こちらでは事情が違います。
 検査は全身麻酔です。なので、スッと意識が遠のいて、そして30分後くらいにスッキリ目が覚めた時には全部終わっていて、10ページ近くに及ぶ結果が印刷されて待っています。

 腸の中って綺麗ですね〜と、腸内写真を医者と一緒につくづく眺めて、「じゃあ5年後にまたね」
 と言われて、エッ5年も先なの? と、ちょっとがっかりしてしまいました。
 医者とは出来るだけ会いたくない、のが自然でしょうし、わたしも病院とは離れて暮らしたいとは思うのですが、この検査は楽チンだし(前日の断食準備はあるとしても。それだって、良いクレンジングの機会でしょう)何よりその医師と会うのが楽しいのです。(だからと言って、個人的にお付き合いしたいというわけではありません)

 初回の時は、へええっ綺麗なものなのね〜と写真に見入って、
「でもほら、こことここにポリープがあるでしょ。取っておいたからね。癌化してないし心配はない。だけど2年後に必ずまた検査に来て」
と、言われたのでした。
 前回は、ポリープがなかったので、その場合は5年後になります。(保険会社の決まり)

 この先生、ニューヨークのエリート医師たちの間でも名が知れていて、医者の患者も多いという優秀な先生なのですが、何よりも、彼のオフィス(と、待合室)は、さながら貴重な写真美術館で、わたしが「いつか実物を見てみたかった」モノクロームの傑作の数々が端正にかかっていて、それが全部、彼のコレクションなのです。
 写真が大好きで、仕事を休むときはほぼ100%、写真のオークションに出かけているとのこと。しょっちゅうヨーロッパと行き来しているのはそのためなのだそう。
 先生のお名前や所属、写真の詳細は、そのコレクションがあまりに立派、希少価値なので、公表は控えますが、初めてオフィスを訪ねたときに、「あの作品の数々はいったい、どこで、、、」と聞くと、「よくわかったね!」と満面の笑みになり、写真談義と相成ったのでした。

 前回の検査の日は、たまたまホリディシーズンに入っていたこともあって、先生に、細江英公『鎌鼬』をプレゼントしました。
 
 彼はEikoh Hosoe の名を知らず、それ以上に、舞踏と言えば大野一雄しか知らなかったので、土方巽をその写真集の中で発見して、大変喜んでくださったのです。その時は、舞踏と土方巽について、話しました。わたし自身もよくわかっていないことが多く、「お互いに勉強しよう」と言い合ったり、CRSで舞踏公演をやる時には招待すると約束もしたのです。
 そんなわけで、その後5年も会えないということに少々落胆したのでした。そしてその後パンデミックになり、CRSで舞踏公演を開催することもできなくなりました。

 写真に埋め尽くされたオフィスを持つ医師が、わたしの知る中でもう一人います。一度診察を受けただけなのですが、彼女のオフィスの写真は、全部野生の動物たちなのです。
「この写真、誰が撮ったのですか?」
「わたしよ」
 彼女のパッションは、アラスカやサハラやアマゾンその他の奥地に入り込んで動物の姿をカメラに収めること。
「次の連休はニューファンドランドでトナカイに会うつもりなの」
 北海道にもいつか行ってくださいね、と言うと、Hokkaido?  それはどこ? どんな自然なの? と、彼女とも会話が弾みました。

 と言っても、二人とも激務の医師。話すと言っても、10分を超えることはありません。
 それでも、その10分は、間違いなく、出会いの時間です。

 二人のオフィスには、“病気”の気配がない、のです。

 身体疾患の治療はそれとして、対等な人と人の出会いを受け止めてくれ、わたしも、わたしの話をしますし、
"Nice to meet you!"
 なのです。

 二人に限らず、ニューヨークの医師たちは(医師だけではなく誰でもが、です)自分の職業や役割に自分を押し込めず、存在全体を隠さず見せてくれるような気がします。そして当然、同じことをこちらにも求めます。
 医師と患者、と関係を規定してしまうと、病気は治らないような気がしますがどうでしょうか。
 自分を患者と決めつけたら、今後もずっと患者でしょう。でも、医師と患者という立場だからこそ出会えた二人が、協力して身体疾患の治療に全力を注ぎ、お互いを尊重し、お互いの“限界”(医師にできること、決定できること、そして医師ができないことがあります。こちらにも、医師にはできないことができる、ということもあるし、医師に頼らなければできないこともあります)を確認し、助け合う、という信頼関係があるならば、その信頼が、治癒を呼び寄せるのではないでしょうか。信頼が二人の分離した人間を繋げ、その繋がりだけが、治癒をもたらすのではと思います。

 わたしには、2年に一度くらい健康診断を兼ねて会う主治医(アメリカでは、各種検査を受けたり何らかの専門医にかかるには、基本的に主治医を通す必要があります。)と、ホリスティック・ドクターがいますが、二人とも、今では友人として日常的にやり取りしています。彼女たちが、わたしの瞑想会に患者を紹介してくれることも。

 ああ、長いこと忘れていました。
 親不知を抜いてもらいに会った歯医者がいました。
 その彼、わたしの親不知をペンチで無理矢理抜こうとしながら(助手に「だめだこれ、抜けないや。根っこが曲がってんじゃないか? ちょっとハンマー持ってきて」などと言いながら)、わたしには、「僕はね、タンゴを踊ることと小説を書くことがパッションなんだ」などと喋りかけてきました。果ては「実はさ、歯なんてどうでもいいんだ」などと言い出す始末。
 その乱暴な施術は激痛、その後出血は止まらず、別のクリニックで術後のケアをしてもらう羽目になったのでした。今は昔。

 

 


 

 

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