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005 誰も頼まないメニュー

「これ、何て読むんですか?」
10代の終わりにバイト先の居酒屋で、わたしは無知をさらしていた。

聞いたことはあるけれど、一度も我が家の食卓には登場したことがない。
どちらかといえば食べ物よりも医薬品の印象が強くて、色も形も知らない謎の食べ物。
それは、2ヶ月ごとに変わる「季節のおすすめメニュー」に載っていた。
読み方は確認したから、OK。
お客さんに聞かれたとき用に、説明の口上も覚えた。
準備万端。
あとは、お客さんが注文してくれれば、アレが何なのかがわかる。

しかし。
誰も頼まない。
週5で長時間シフトに入っているのに、まったく頼む人がいない。
「季節のおすすめメニュー」をおすすめするのはマニュアルに入っているので、わたし以外のスタッフももれなくメニューを提示しているはずなのに、まったく選ばれない。
…もしかして、食材としておいしくないのでは?
謎は深まるばかりだ。

そんなある日のこと。
深夜のラストオーダーを終えて洗い場の締めにかかっていると、キッチンの社員さんに声をかけられた。
「ねぇ、これ食べない?」
ラップのかかった皿を冷蔵庫から取り出してきた。
「なにそれ?」
「おすすめE。全然出ないから廃棄だよ」
おすすめE、アレだ。
「無花果の柚子味噌がけ」だ。

お皿には、紫色の滴型の塊がふたつ。
こっくりツヤのある茶色い味噌に削り柚子はらり。
ほほぅ、これがあの、「いちじく」…。

そっと手でつかむと、少しやわらかい。
ひとくちかじってみる。
桃のようなとろける食感に甘み、ほのかな酸味、柚子味噌の甘じょっぱさと、つぶつぶの種。
「蒸したいちじくに甘めのお味噌をかけて冷やしたものです」
という口上が脳内で駆け巡る。
「ねぇ、すごくおいしい!こんなにおいしいのに何で誰も頼まないの?」
「…いちじくだからじゃない?」
「なんで??」

結局、その後のおすすめ期間中にわたしが受注した「おすすめE」はたった1皿で、蒸され冷やされ出番を待ついちじくは、日々闇に葬られていたようだ。
確かにちょっと、むずかしい。
ツマミなのかデザートなのか、どっちつかずで、どのタイミングで食べるものなのかわからないアレンジ。
食べなれてる人ほど「庭になってるのをもいで食べるもの、お金を払ってまで店で頼むものじゃない」らしい。

時が経ち、家庭を持ってからはたまにスーパーでいちじくを買うようになった。
半分に割ると、皮の紫から黄緑のグラデーションの実、えんじ色の種の色彩の美しさに見とれてしまう。
そのままかぶりつき、みずみずしさに息を洩らす。

ある年、夫の実家に帰省した。
それなりに回数を重ねて見慣れた家の裏手にある畑で、なんとなく尋ねた。
「あれは何の木ですか?」
「いちじくよ」
「えっえっえっ」
いつも季節の野菜や果物をたくさん送っていただいてる中に、いちじくが入っていたことはなかった。
挙動不審なほど興奮するわたしに驚く義母。
「毎年いっぱいとれるけど、傷むのが早いから送りづらいのよ」
と言いながら、翌年以降は少し早取りしたものをたっぷり山盛りに送ってくださるようになった。
いちじく天国、ありがたい…!

20年以上経ち、いまだにあの時のおいしさと驚きは忘れていないけど、レシピを再現したことはない。
蒸して甘味噌をかける、だけなのに。
また食べたい、でも想い出の中にそっと留めておきたいような、くすぐったい気持ち。
でもそろそろ、次にいちじくの季節が来たら作ってみようか。
何も言わずにそっと冷えた一皿を差し出したら、あの日の感動を夫と共有できるだろうか。

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