「未来」に囚われていないか?~テクノロジーは今むしろカルチャーを後追いしている〜

若林さんの著書「さよなら未来」出版にあたっての爽快なメッセージ。

今の時代に、なぜ歴史や文化人類学や心理学といった人文科学が重要になるのかを物語っているように思う。

https://sayonaramirai.com/introduction/

“結局のところ、テクノロジーはそれが文化となる道筋を得てしか社会のものにならないし、そうならない限りビジネスにだってならない。そろそろ、みんなそのことに気づこうよ、てか気づかないとヤバくない? てなことを、手を変え品を変え7年間言い続けた集積が、『さよなら未来』という本だ。”

“新しい世界を再想像するための種は探せばみつかる。少なくとも海外では確実に増えている。ただし、それはテックの領域においてではない。むしろカルチャーだ。「未来を考えることはテクノロジーを考えることである幻想」にまどろんだアタマで無理矢理でっち上げた「未来」をこねくりまわしているうちに、世界の風景はどんどん変わっている。先日北欧で訪ねたほとんどのコワーキングスペースのトイレは、当たり前のようにジェンダーフリーでしたよ、とか。風景が変わるということは文化が変わるということだ。もちろんそこにテクノロジーは大きな寄与をしている。ただし、それはあくまでも遠景の地紋としてだ”

若林さんは本当にそのことを手を変え品を変え言い続けている。

例えば、『WIRED』VOL.7 ー「未来の会社:これからの『働く』を考える」の発刊に寄せてのコメント。これ、先日facebookさんがリマインドしてくれたのだが、5年前。

“「未来の会社」と銘打ってはいるが、明かせば、未来の話でもなんでもない。どこかで聞いたような、古くさくて青くさい話なのだ。けれども、そんな古くて青くさいところにいったん立ち返って「会社」とか「働く」ということを考え直さないと、どんな会社であれ、働く人であれ、幸せに生き残っていくことができないのが、ぼくらが迎えようとしている「未来」なんだと思う”

あるいは、昨年のWIRED日本版の紙媒体の休刊に際してのインタビュー。

http://diamond.jp/articles/dol-creditcard/154252

“(若林さんにとっての守護聖人である)イヴァン・イリイチは晩年に「『未来』などない。あるのは『希望』だけだ」って言い遺しているんだけど、これも、なんかだか似たようなことを言ってるようにも思えて。未来に期待をして、予測をして、計画をしていくことで、ヒトも人生も、開発すべき「資源」や「材」とされてしまうことにイリイチは終生抗い続けたんだよ。

“未来──あるいは、ここでは人生って言ってもいいんだけど──にやみくもに期待しつづけることから脱けだせなかったら、ヒトはいつまで経っても未来というものの奴隷なんだというのが、その本意だと思う。そう考えると、「いつも人生に驚かされていたい」っていうのは、まさにそこからの脱却を語ったことばなんだよね。めちゃめちゃ感動した。”

◯新たな「風景」に出会う旅

じゃあ、未来の奴隷にならないためにはどうすれば良いのか。

そういえば、日本を代表する哲学者・思想家の鶴見俊輔さんは「文化とはなんだろうか」という自身の座談集の中で、文化のことを

「現実のしっぽを捕まえる思想のエネルギー源」

と巧みに表現していた、

そう、まさに、現実のしっぽ。

鶴見さんの本とかを読んでいて改めて気づかされるのは、

文化には、政治や経済には叶わない、人々(大衆)が世界を自分ごと化していける柔らかさがあるということ。

文化にはそれが合理的であるかなんて問いは存在しない。そこには風景があるだけ。

だけど、それは既に現れている「未来」だったりする。

10年前、英国の介入で送電線の工事が数十年間止まっていた(つまり電気が通っていない)ケニアの村で、携帯電話を握りしめた若者たちがこぞってソーラーパネルのついた村長さんの家に充電しにきていたあの景色もそう、

パリ郊外の薄暗いアンダーグラウンドのコーワーキングスペースに集う若者たちがこれからはwell-beingの時代だと語り合い、そうかと思えばシリコンバレーで開催された企業イノベーターのカンファレンスでinner-scienceのセッションが人気を博していたあの熱量もそう。

おそらく、大切なことは本来自分が感じていた違和感や生きる感覚、つまり風景を感じ取るセンサーを存分に解放できる環境を整えることと、その風景が変わり始めている場所に実際に足を運ぶことなのだと思う。

オフィスにこもり、「未来を考えることはテクノロジーを考えること」という幻想の中で、「まどろんだアタマで無理矢理でっち上げ」ているのであればなおさらだ。

そして、その風景をより深く味わうためには知恵がいるのも事実だ。だからこそ、歴史や哲学や文化人類学や心理学といった人文科学が重要な時代なのだと思う。

私自身、仕事柄、未来ビジョンを一緒に考えたり、未来予測系のプロジェクトも多くしているわけだが、やりながらいつも思うのは、

未来を扱おうとする営みは、これまでは気づかなかった、新たな「風景」に出会うための旅だ。そして、その出会いは、たいてい「今を生きる力」を与えてくれる。

僕の好きな言葉に、

"Life is what happens to you while you are making other plans"

人生とは、何かを計画している時に起きてしまう別の出来事なのだ

という言葉がある。星野道夫さんの「イニュニック 生命 - アラスカの原野を旅する- 」で紹介されている、アラスカのブッシュパイロット、シリア・ハンターさんの言葉だ。

自分が想像もしていなかったような新たな風景に会えるからこそ旅は楽しいものだ。

といったって、戦略とか5カ年計画なしには組織として動けないじゃないかという声も聞こえてきそうだけど、未来を一生懸命予測して、計画して、逆にがんじがらめになってしまった結果が今なわけで、

想像を超える変化が起こっていく前提での関係性や経営のあり方が模索されているのではなかったか。

個人のミッションと組織のミッションと重ね合わせることで相乗的に価値を生み出していくような時代なわけだし、そうした旅をするように生きる・働くっていうスタイルがもっとあっても良いのではないだろうか。

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