父の死から2年。僕に27年間で教えてくれたのは、生き様。
2017年2月1日夕方ごろ、
母親から電話がかかってきた。
どうやら父親がもう危ないらしい。
頭の中は真っ白、母親は電話をスピーカーにしてくれて声をかけて!って言われてるけど僕は立ちすくんで「親父!」しか言葉が出てこなかった。
時間は待ってくれない。
オフィスに戻って親父がもう危ないことを仲間に伝えたらみんなで福岡に戻るチケットを親戚分まで手配してくれた。
どうにか羽田から23時くらいの便があったようでそれで急いで福岡に向かった。
福岡(北九州空港)に着いた時にはもう深夜1時前。
でも実はもうこの時飛行機の中にいるときに親父は逝ってしまってた。
それを知るのも着陸してからで、迎えにきてもらった後輩の車に駆け込んで1時間半くらい移動した。
すごく周りの景色がゆっくり動いてる感覚だった。
ちょっと話は遡り、
僕は2015年10月に入籍し、翌年9月に結婚式を挙げた。
友人はじめ、仕事の仲間や親戚までたくさんの方々に祝福してもらった。とても幸せな時間だった。
それから数週間後、親父が倒れた。
気づいた方もいるかもしれないが、
結婚式を挙げた2016年9月から親父が亡くなった2017年2月までは4ヶ月。
この期間は想像もつかないくらい早いスピードだった。
敗血症を起こして倒れてしまい、そこから2週間は緊急治療室で血液を入れ替えたり、いろんな薬を投与しながら目を開けることもなく親父はずっと眠っていた。
奇跡的に目を覚ました連絡を母親から受け、すぐに福岡に戻った。
親父はいつも通り冗談を言いながらも自分が何でこんなことになってるのかを必死に理解しようとしてたように見えた。
検査の結果、
病名は、膵臓癌。
ステージは、4。
僕らが気がついた時にはもう末期だった。
これを聞いた時は当然全く何も入ってこなかった。
何も心当たりがないながらもいろいろ振り返って思い出していくと、太ってた親父が少し痩せてきたな〜と運動もしてないのに得意げに言ってきたり、背中が痛いと毎晩お風呂あがりに湿布を貼っていたりと線につながったことも多かった。
後悔しかなかった。
あの時もっとあの時もっと、
いくら前向きに考えようとしてもそれしか出てこなかった時期もあった。
そんな状況の親父が退院してから言い出したことに僕は驚愕した。
「起業する準備をしてる。」
え、?、は?笑
みたいな僕のリアクションをよそに親父は今後の事業計画と展望を僕に話してくれた。
親父は元々僕が8歳くらいの時から独立して金物業界で卸業をやっていた。
母親も会社を手伝ってたこともあり、たまに会社に行っては従業員の人たちに可愛がってもらってた。
僕はこの環境が小さい頃からの日常だった。
自分で会社をやることは僕にとっては自然なことだった。
親父の会社のお客さまや従業員の人たちもみんな口を揃えて「お前の親父は口が上手い」とか人たらしだとか言ってきてた。
根っからの営業マンで、高校生になってからはよく営業に一緒について行かせてもらった。
ただコーヒー飲んで帰ることもあったから「本当に営業になってるの?」と思うことも多かったからたくさん質問した。
この頃から教え込まれた親父の営業哲学は今の僕自身の中に深く刻み込まれてるように思う。
みんなから見ると順風満帆にいってたように見えてた時期もあったが、業界構造の変革や景気の影響もあって親父の会社は倒産してた。
僕が大学2年のときで親父の名前を検索したときにこの事実を知った。(なんで親父の名前なんて検索したかは覚えてない笑)
大学時代は京都にいたので何も知らなかったが、久しぶりに帰省したときに一軒家の実家が小さなマンションに引っ越してたときに事の重大さにようやく気付いたくらいだった。
それでも親父は折れてなかった。
次から次へと自分の武器である営業力をいかして、たくさんのチャレンジをしてた背中を見てきた。
親父のスカイプとかラインの少し文章入れられるところには、「不撓不屈の精神」って書いてたからたぶん座右の銘的な感じで大切にしてた言葉なんだろう。
そんな親父が、
死にかけた状態から目を覚まして少しずつ復活していたとはいえ、
「起業する準備をしてる。」
という言葉を聞いたときには
「さすが俺の親父だなぁ」しかなかった。
そこからの親父は本当にすごかった。
お医者様も「今立てていること自体、奇跡」とまで言っていた。
気迫で生きた4ヶ月。
抗がん剤を打ちながらも毎日資料づくりや打ち合わせ、営業など奮闘していた。
朝早くから土日でも事務所に連れてけと言われれば動かないようになってた体を支えながら事務所まで連れて行って一緒に作業した。
僕はこの時、これまで27年間育ててもらう中で父親から一番大きな学びを得た。
「生き様」
よく本とかで死に直面した事のある人は強い。というのを目にするが、まさに今思えばそれだった。
ただ僕の想像を遥かに超えるほどの「強さ」だった。
「起業」なのでうまく行かない事が9割9分。
商談がうまく行かないとか、前向きな話がひっくり返されるとか、いろいろ僕に話してくれたけど、何が起こっても怯むことなく、前だけ向いてうまくやる方法だけを探り、行動しまくってた。
僕はたった4ヶ月しかない短い期間だったけど、ものすごくこの時間を長く感じた。
僕はそんな親父の姿を見てたから
まさかこの時間が4ヶ月で終わるなんてことは思ってもなかった。
家族には親父は自分で起業するなんてことは心配かけるし止められるから言ってなかった。
だから僕以外の家族は亡くなった後にこの事実を知ってなおさら驚いてた。
でもようやく理解できたと、あの状況でなんであんなに動けていたのか、話せていたのかが。
家族に心配かけずに、家族を守ることに必死に生きてくれた4ヶ月。
親父からは起業のことは絶対に言うな!って口止めされてたから言わなかったことを亡くなった後に全てが明らかになったときどんなに「なんで言わなかったの!」って言われても、僕に後悔はなかった。
親父とした最後の男の約束をちゃんと守れたから。
親父は気づいてたのかもしれない。
だから俺に見せてくれようとしたのかもしれない。
生き様ってやつを。
1月28日、親父は腹水がたまりにたまってついに動けなくなった。
仕事があるから病院には行かないと言い張ってた親父も観念したのか
「わかった。」と救急車を呼んでくれということだった。
一緒に救急車に乗って病院について腹水を抜いてちょっと楽そうになってた。
この時母親と僕は説明を受けてた。
腹水にも栄養分が多く入っててこれを抜くということはかなり衰弱してしまうリスクがあると。
それでもやるしかなかった。
僕はその翌々日にはすぐに東京に戻らないといけなかった。
親父はその後一気に元気が無くなってしまい、すぐに緩和ケアの病院に移ることになった。
ずっと緩和ケアの病院にはいきたくない!と言い張ってた。
親父は1月28日に自分はこれ以上仕事ができないとわかったんだろう。
それから5日で逝ってしまった。
本当に仕事に対するエネルギーだけで生きてた。という感じだった。
そういえば僕が起業するときにも親父と約束をした。
「言い訳を言わずに、やりたいことを諦めずにやり抜くこと」
もう親父はいない。
会社のことで何か相談したくても聞いてくれる環境は僕から突然なくなった。ただただ、恵まれてただけだった。
競争相手もいなくなった。
僕に残ったのは親父と約束した、
「言い訳を言わずに、やりたいことを諦めずにやり抜くこと」という言葉だけ。
この約束は今後の僕の人生の中での宝物になるだろう。
しめっぽくなっても嫌なので、
僕は2018年10月に息子ができた。
出生日は僕らの結婚記念日、
親父の誕生日も両親の結婚記念日だった。
運命なのかな?そんなこと考えるタイプでもないが、これは運命だと信じたい。
自分はどんな父親になれるだろう。
何を息子に残せるだろう。
一つ僕に課せられてることは親父と同じ、それ以上の「生き様」を見せること。
28歳、まだまだ浅いし、なんとも言えないくらい中途半端な年齢だなぁと最近思う。
起業家として若くもないし、かといって経験もまだまだ浅い。
理想と現実のギャップに日々苦しみながらも、こうなったらいいな、こんな世界作りたいなぁっていうイメージに向かって進むことに楽しみを見出してるまだ途中。
一つ一つを噛み締めながら、
家族や会社の仲間と一緒に楽しいこといっぱいしていきたい。
まだまだ詳しくも書けるが一旦この辺で。
最後になんでこのタイミングでこの話を書いて発信することにしたかというと、少しずつ登壇など人前でお話しさせていただく機会をいただくことも出てきている中で、井手康博という本当の僕自身を知ってほしいと思ったからです。
そもそもまだ何も成し遂げてないし、語れる立場だとも思ってませんが、「知ってもらう」ということに対しての僕が選んだチャレンジです。
元々知っていた方もそうでない方にも、決して同情してほしいわけではなく、いろんなことあるけど人生楽しめたもん勝ちだよねってことで締めくくります。
読んでいただいた方、ありがとうございました。
(↑10月に生まれた息子くん)
井手 康博