木枯らし

 これが最後の冬になるだろう、と犬のリュウは知っている。自分はこの冬を乗り越えることはできないだろうし、生きてもう一度春を目にすることはない。しばらく前から体の中で何かが起きていることはわかっていたし、食べ物はほとんど喉を通らなくなっている。体内で悪いものが増殖し、細胞を静かに食い破っていくのを感じている。飼い主の夫婦はすぐに獣医に連れていってくれたが、もう手の施しようがない、ということだった。薬で痛みをある程度取り除くことはできる。でもそれだけだ。その晩、夫婦は泣く。ふたりには子どもがいなかったので、リュウは家族以上の存在だ。この十年のあいだに、夫婦のあいだにはいくつかの危機が持ち上がったが、リュウの存在がふたりを繋ぎとめていたのだ。夫婦のあいだに険悪な匂いを嗅ぎつけると、リュウはふっと行方をくらませる。夫婦が気づいて町中を必死に探しまわり、「いったいどうして喧嘩なんかしていたのだろう」と思うほど心配し、気も狂わんばかりになったころ、夫婦のあいだから嫌な匂いが消えたことを嗅ぎつけたリュウが、ひょっこりと姿を現す。飼い主の女は「もう、心配したでしょ!」とリュウの白い毛並みにぎゅっと顔を埋める。飼い主の男は「まったく困ったやつだな」と頭をかく。そしてふたりと一匹は家路につき、それは彼らの生きてきた時間で最も美しい瞬間のひとつになる。そんなふうに暮らしながら、いつの間にか13年が過ぎる。これからもずっとそんな時間が続くだろうと、まだ夫婦は思っている。でもそれは叶うことのない夢だとリュウにはわかっている。とはいえ、迫りつつある死をリュウは恐れていないし、絶望してもいない。なんといってもリュウは犬だ。人間とともに暮らし、人間を観察し、人間に寄り添い続けることで、人間特有のさまざまな感情やものの見方を学んではいても、やはり異なる種族であることに変わりはない。犬の心はどこまでも「いま・ここ」だけを、現在だけを生きている。過去を懐かしみ、未来を想像して死を恐れるのは人間だけだ。リュウは死を恐れはしない。恐れるのは耐えがたい痛みと、どれだけ息を吸い込んでも消えない苦しさと、自分が自分でなくなっていく感覚だけだ。

 それでも、自分がいなくなったら飼い主たちは悲しむだろう、ということがリュウには(犬がもてるかぎりの想像力の範囲で)想像できる。なにしろ、日々弱っていくリュウを見て、もう夫婦はボロボロに泣き暮れているのだ。この一ヶ月は、どちらも仕事まで休んでリュウの看病をしている。飼い主の女は「どこにもいかないで」とリュウを抱きしめて泣きつづけ、飼い主の男はまだ奇跡を信じて腕のいい獣医を探しつづけている。これでは自分が死んだあとが思いやられるというものだ。

 お二人さん、おれはまだ生きてるよ、とリュウは思う。まだ死んじゃいないんだよ。だから夕飯にもうすこし美味いものを出してくれないかな?と思う。だが無理もないだろう。リュウは十七歳で、犬としてはかなり長生きしたほうだが、飼い主の夫婦はまだ30代半ばだったし、愛するものの死を初めて経験しようとしているのだ。

 リュウは、犬がもてるかぎりの想像力の範囲で、愛について考えてみる。自分がこの夫婦にとても愛されていることは、わかる。自分は運がよかった、とも思う。では、自分はどうだろう? 自分はほんとうにこの夫婦を愛していた、といえるのだろうか?

 北のほうから木枯らしが吹いてきて、リュウは思わずくしゃみをする。

 知るもんか。そういうことは犬が考えることじゃない。人間が考えることだ。

 これが最後の冬になるだろう、とリュウは知っている。でもそれはそれとして、お二人さん、今夜の夕飯はなにかな?

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