クレジットカード

 夜、コインパーキングから車を出庫しようとした男が、財布のクレジットカードが無くなっていることに気づく。どこかに落としたのだ。男は震える手でスマホを取り出し、カード会社に電話する。一刻も早く停止してもらわなくては。

 電話に出たオペレーターに、男は事情を説明する。オペレーターは「左様でございますか」とにこやかな声で応じる。どこかで聞いたことがある声だな、と男は思う。でも誰だかは思い出せない。「それでは、お客様のお名前、生年月日、ご住所、電話番号、カード番号を口頭で構いませんのでお願いいたします。こちらで登録されているデータと照合し、確認ができましたらクレジットカードの停止手続きに入ります」とオペレーターが言う。

 電話の向こうから、チューニングの合わないラジオのようにザーザーとノイズが聞こえてくる。それにガラスが割れる音や、女の叫び声や、銃声と爆発音のようなものまで聞こえてくる。だが男はとにかく気が動転しているので、電波が乱れて混線でもしているのだろう、と思って首を振る。まったく、緊急事態だというのに! 男は雑音に負けないように声を張り上げ、すべての情報をオペレーターに伝える。男の個人情報が夜のコインパーキングに響きわたる。オペレーターは満足したように「しばらくお待ちください」と言って回線を保留にする。待受音として『くるみ割り人形』のメロディが流れ始める。

 待っている男が苛立ちながら空を見上げると、ほぼ満月に近い月が、闇の中に煌々と輝いている。でもその月は、ちょっと大きすぎる気がする。記憶にある満月の軽く二倍くらいの大きさがある。

 突然ニャアと鳴き声がして、男がビクッと足元を見下ろすと、真っ黒な猫が牙をむいて男を見上げている。その眼も、普通の猫より少し大きすぎる気がする。なんか変だな、と男は思う。思わず後退りすると、地面からぬるりとした感触を感じる。片足をあげてみると、靴底が真っ赤に染まっている。それどころか、あたり一面が真っ赤な液体に浸っている。コインパーキングの看板の〈空〉と〈満〉の電光表示がめまぐるしく切り替わり、狂ったように何度も明滅する。出口のすぐそばの道路のマンホールが、ガタガタと音を立てて震え出す。まるで地の底から得体のしれない何かが這い出そうとしているように。

 なんか変だな、と男は思う。

 でも男の頭のなかは、今のところクレジットカードのことでいっぱいだ。他のことなど何も考えられない。スマホのスピーカーからは、あいかわらず『くるみ割り人形』のメロディが流れている。男の頭上で月はますます大きくなり、いまや夜を覆い尽くそうとしている。

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