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果たして人は変われるのだろうか?


基本は人を信じ切ると決めてるスタンス

俺的には、誰かが何かをやりたいならば、その気になれば、だいたいは実現すると思っておる。

約束を守るも破るも自分次第だし、変化して成長する人も、そのまま佇む人も、両方見てきている。

その上で、やっぱり人は変化できると信じている。やや宗教的なくらいに笑。だし、その方が希望があって、楽しいよな。

変わらないとか変われないは、しんどいよな

だって、周りが変化していくからな。人、環境、時代、テクノロジー、価値観。俺が生きてきた50年弱でも、だいぶ変わったよな。スマホもネットもなかったし、酒もタバコも寛容だったし。

その変化を受けて、自分がどうするか。変わらないと決めても良いけど、結構キツイ気がする。時代の変化は早いやで。

アラフィフになると、色々と自分のポンコツ味とつきあわざるを得ない。身体は結構ボロボロだし、肉離れは治らんし。心は心で、良くも悪くも結果が見えやすくなり、色々と味が分かってまぁまぁこんな感じよなと想像がつく。みずみずしくない!

ゆえに、自ら変革を求め、機会をつくりにいくことが大切。リクルートの「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」って言葉はめちゃ響く。

原因論と目的論

人は変われないという観念

一般的なカウンセラーや精神科医は、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘するだけ、また「だからあなたは悪くないのだ」と慰めるだけで終わってしまいます。いわゆるトラウマの議論などは、原因論の典型です。

『嫌われる勇気』(岸見一郎)

コンサル的な発想をするなら、課題を解決したくなるわけで、「どしてこうなった?」という観点からスタートしがち。その場合、原因があるなら、結果は自ずと導かれてしまう。グレてる子供がいて、親が虐待してた場合、そこに原因を見がち。ところが、親に虐待された子供が必ずグレるわけでもない。因果関係を見つめることは、課題解決に有用だけど、そこに囚われすぎると、原因から必ず結果が導かれてしまうので、人は変われない!という発想になってしまう。

人は変われるという観念

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」

『嫌われる勇気』(岸見一郎)

ものの見方とか、出来事から何を学びどう意味づけるか。アドラー心理学はそんな発想。だから、同じ原因めいた出来事があっても、結果どうなるかはその人次第。ゆえに、人は変われるよって思う。

むかつくとか怒りも、自動的に発生するわけでなく、自らそれを求めている。人は怒りを捏造するらしい。例えば、イラっとする出来事があったとして、大声を出したとする。それは「怒ったから大声を出した」わけでなく、「大声を出したいから怒った」と考えられる。大声を出すことで、相手に対して求める行動を促す効果がある。ので、目的に対する手段として、怒りという感情を捏造すると。

なるほど。確かに怒っている時に、お客さんとか、外部と関わることがあったら、急速に冷静になるもんな。ので、怒りは出し入れ可能な道具と見るのがアドラー。

やっぱ人生は何とでもなるやで

俺はアドラー的視点に結構影響を受けているなぁと改めて思った。自分の捉え方、見方次第で、なんとでもなる。

で、やっぱこれよな。

というわけで、明日も気持ち切り替えてこう!

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