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H・M・エンツェンスベルガー「世界の謎」翻訳+解説

世界の不思議(Welträstel)

隠れた数字、熱意、口論―
それは必要なのだろうか?
どうして h = 6,625 × 10^-34 J.s であり、
それ以上では全くないのか?
神がいるのだとすれば、何柱あるのか?
お風呂に入ると急に機嫌が良くなるのは
どういう理由から?
克服しがたい愚かさ。小さすぎるのか、
霊長類の脳は、それとも大きすぎるのか?
未だに、利用料金も取られずに蝶が
あちこちを飛んでいるのは滑稽だ。
死んだり甦ったりを繰り返し、
自らも、そして他人も消耗するのは
どんな結末を迎えるためなのか?
どうして「私」がいて、そして何のためにいるのか?
この永遠の問いとは、一体全体何なのか?
変わらぬ忠誠心や実直さは何のために、
そしてそれのどこがいけないのか? 誰に
この留まることを知らない進歩の責任があるのか?
ビッグバンの起こる前に
こんなにも厳しい不況が起こっていたのだろうか?
スポーツは、ヘイトは、
金はどうだったのか?
なぜ少なすぎるでも、あるいは
多すぎるでもないのか? そして
なぜ何もないのではないのか?

(aus: Die Elixiere der Wissenschaft)

◆解説

さっと確認したところ、この詩は詩集などに収められておらず、たまたま著者であるエンツェンスベルガーが新規で書き下ろしたものであるようだ。今日(11月11日)で92歳を迎えた同氏だが、世界に対して問いかけ続ける姿勢は昔から変わっていないらしい(それが詩人としての彼の本懐なのかもしれない)。
冒頭にある「隠れた数字、熱意、口論」とは、まさに世界の謎の根源に触れるための手がかりの一覧だ。隠れた数字とは、まさにプランク定数(h=6,625 × 10^-34、現在ではh=6.62607015×10^-34と表記される)のように、自然現象を説明する数式だったり、古来より熱意をもって論争の的になっている「神の存在証明」――そういえば数学者のゲーデルもまた行っていた――であったり、あるいはもっと卑近で下らない口論、例えば風呂に入ると気分がサッパリしたりする不思議、あるいは蝶があちこち飛び回っているのに土地の使用料などを求められないのは何故だと罵ったりするような愚かさであったり、とにもかくにも謎が尽きないことが取り上げられる。
だが同時に、それらは果たして必要な問いなのだろうか、と詩人は指摘する。そうした世界の謎を解き明かそうとする試みは、ある意味では「けったいな(おかしな)」ことですらある。例えば森毅の数学エッセイなどでも、「水100gに塩10gを入れると溶けて見えなくなるが、けったいなことに重さは110gになる」と教える教師と生徒の話が出て来るのだが、そうした見たままという意味では自然な直観に反することを一体なぜ行うのか、と確かに思うこともある。しかし、そのような何もかもを問いに付そうとする態度は、逆に究極の謎に到着してしまう。つまり、ライプニッツが定式化したあの有名な存在論的問いである、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」に帰着する。だから例えば、「哲学は、詩は、文学は一体何のために存在するのか、どんな意味があるのか、あるいは何の役に立つのか?」といった、いわゆる文系学問によく投げかけられる問いにしても、そうした問いを突き詰めると、また別の問いを生むことになるかもしれない。

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