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ソニア・ニェーゴー「(シーッ、彼は寝ているから出ておいで)」翻訳+解説

Sonja Nyegaard
(Hysj han sover kom ut her)

シーッ、彼は寝ているから出ておいで
それは君には聞こえる暗闇
心臓の鼓動が僕らを惑わせる
僕らは伸びる影の端っこにいる

これは神様みたいに元気をくれるもの、
それは単純なことで、すぐに覆われていない言葉が渦を巻き
復活が足踏みをするけれど、
違った風に重いと感じられるような
かつての不眠症のようなもの
であるこの温度

砂と光の狭間で僕は誰も裏切らない
でも光は伸びる
僕は時計の音を聴きながら家中を移動する

Hysj han sover kom ut her
det er mørket du hører
hjerteflimmer blender oss,
vi er kanten av spenstige skygger

Dette er en trøst som ligner guder,
enkelt, men snart virvler udekkede ord inn
oppstandelsen henger i spennetak
er dette temperaturen
som kan fornemmes annerledes og tung
som en hvilken som helst søvnløshet

mellom sand og lys bedrar jeg ingen
men lyset strekker seg
jeg lytter til et ur jeg flytter gjennom huset

(fra: Jernet er ikke hardt)

◆解説

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(Foto: Andrew J. Boyle)

 今回紹介するソニア・ニェーゴーは1959年バールム生まれの女性詩人で、ノルウェー国立工芸・芸術産業学校を卒業してから、35歳で詩人としてデビューしたいわゆる遅咲きの詩人である。その初の詩集が1994年に出版された『鉄は固くない(Jernet er ikke hardt)』で、1997年には『カラマツソウ(Frøstjerne)』を、2004年に『無比の歴史(En makeløs historie)』、そして2018年に『暗闇とは奇跡である(Mørket er et mirakel)』をそれぞれ上梓しており、その経歴を見る限りは断続的に詩作活動を行っているようである。そうした背景からか、2021年現在でもノルウェー語のWikiにも殆ど情報が載っていなかったりするが、2019年には彼女の四作目の詩集に対して「ノルウェー批評家賞」が贈られているようである。
 ニェーゴーの作風としては、ヘルシンキ大学の上級講師H.O.アンデルセンによれば、ノルウェーの90年代における新たなる潮流を生み出した一人として彼女は挙げられるとした上で、北欧における70年代から80年代までの女性詩人、とりわけ現代デンマークの女性作家であり、その身体表現が特徴的なピア・タフトラップ(Pia Tafdrup, 1952-)の流れを汲むものだと言う。例えばタフトラップは、彼女が1985年に発表した『大潮(Springflod)』という詩集で、「月の満ち欠けのサイクル(månesyklusen)」と「月経のサイクル(menstruasjonssyklusen)」の間の関係についての詩を書き成功を収めたが、一方のニェーゴーもまた『鉄は固くない』の冒頭を「月は降雪の/出血の/満潮そして羽のもと」という詩で書き始め、末尾を「星がある/そして星は君をじっと見ている/君は性が一番内奥にあると考え/チョークで輪郭を描く」と締め括っていることからも、ニェーゴーもまた自身の身体表現の手段として詩を書いている、と言えるかもしれない。
 また、アンデルセンはいわゆるフレンチ・ターン(=フランスへの転回)の一つの結実としてニェーゴーの作風を捉えている。いわゆるデリダ的な(言語の)脱構築という手法は、確かに今回紹介する彼女の詩にも見て取れるだろうが、しかしアンデルセンがそうした「ポスト構造主義的な/脱構築主義者」という形容を行うとき、一体それらの手法の射程をどの程度想定しているのだろうか。意図的な文法的一貫性の打破、という意味では既に破格構文(Anakoluth)といった手法はあるのだし、安易なカテゴライズは思考の硬直化を促すため、こちらに対しては疑問視するくらいの感覚を持っておけばいいだろう。
 さて、「(シーッ、彼は寝ているから出ておいで)」は、全部で三連からなる詩で、やはり特徴的なのが第二連の破格構文である。「君には聞こえる暗闇」に誘われ、暗闇の世界へと向かう「君」はそこで元気をもらう。そこでは明確に光と闇が対比される構造となっており、「暗闇」では、「覆われていない言葉」すなわち打ち明け話の類や、「復活が足踏み」する、といった表向きには言えない不信仰さなどを、暗闇なりの方法で肯定してくれる。一方で第三連、「砂と光の狭間」に立つと、そうした後ろめたさを持つこと自体が憚られる(僕は誰も裏切らない/でも光は伸びる)気さえしてくる。だからこそ光が差し込まないタイミングを狙って、影ができる場所へとこの詩の語り手は移動するのだろう。

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