見出し画像

アダム・ザガエフスキー「傷ついた世界を賛美せよ」翻訳+解説

画像1

今回紹介するアダム・ザガエフスキーという人物は、1945年生まれのポーランドの詩人、小説家、エッセイスト、翻訳家で、2021年の3月に亡くなってしまった人物だ。「ポーランドの詩人で、受賞していない賞はもはやノーベル文学賞だけ」とまで言われるぐらい、ポーランド国内や、後述するアメリカなどで有名な作家なのだが、日本での知名度はおよそ0に近い(とはいえ、村上春樹と同じくずっと「ノーベル文学賞候補作家」として挙げられ続けている人物ではあるため、名前だけは聞いたことがある人もいるかもしれない)。だが、私が紹介する詩人にしては珍しく(?)日本語のWikiが存在するため、まるごと引用しておこう。

ウクライナ・ソビエト社会主義共和国・リヴォフ(現在のウクライナ・リヴィウ生まれ。第二次世界大戦後の1946年、一家はウクライナ人によってシレジアのグリヴィツェに追放された。その後、ヤギェウォ大学に入学し、心理学と哲学を学び、1972年から詩作を開始した。1975年のヘルシンキ宣言後に59の手紙に署名後、1976年ポーランドの労働者防衛委員会に公民権活動家として参加したが、共産主義体制批判による発禁処分を受けた。
ポーランドにおける戒厳令の発動後、1982年にパリに移住したが、2002年以後はポーランドのクラクフに戻る。アメリカ同時多発テロ事件以後にザ・ニューヨーカーに発表した詩によって世界的に有名になった。2007年からはシカゴ大学で客員教授として教鞭をとった。

以上がザガエフスキーの大まかな経歴ではあるが、残念ながら彼の著作については日本語が一切存在していない。そこで、今回は2001年9月24日に雑誌『ニューヨーカー』上で掲載された、9.11についてのザガエフスキーの詩を紹介しよう。その詩は「傷ついた世界を賛美せよ」という、9.11が起こる一年半ほど前に書かれたもので、彼が父親とともにウクライナのリヴィウを訪れた際の経験を詩にしたものだ。その詩が掲載された後、同年の12月には、『ニューヨークタイムズ』のブックレビューに寄稿した評論家が「アメリカが初めて歴史の悪夢に入り込んだのを、ポーランドの詩人だけが道を示してくれていたかのよう」と評価し、結果的に「9.11の詩人」として、人々に知られるようになった。

とはいえ私はポーランド語は分からないため、Renate Schmidgallによるドイツ語訳を底本に、また『ニューヨーカー』上に掲載された英訳を参考にしながら翻訳を行った。以下がその翻訳である。

傷ついた世界を賛美せよ

傷ついた世界を賛美せよ。
長ったらしい六月の日々と
エゾヘビイチゴと、ロゼワインの雫を想起せよ。
難民たちに打ち捨てられた小屋に
イラクサが秩序立てて蔓延るのを。
お前は傷ついた世界を賛美しなければならない。
お前は優雅なヨットや船を眺めていた。
そのうちの一艘には長い旅路が待ち受けており、
また別の船はただ塩辛いだけの虚無が待ち受けていた。
お前はどこにも行けない亡命者たちを見た、
お前は嬉しそうに歌う死刑執行人の声を聞いた。
お前は傷ついた世界を賛美すべきだ。
カーテンが揺れ動いたとき、真っ白い部屋で
君らと共に過ごしたあの時期を想起せよ。
音楽が炸裂したコンサートを思い出せ。
秋にお前は公園でドングリを拾い集め、
そして葉は大地の傷跡の上で渦を巻いていた。
傷ついた世界を
そして鶫が失くした灰色の羽を、
そして彷徨い、消滅し、再び戻って来る
柔らかな光を賛美せよ。

(出典:Sinn und Form, 2021 / 5. Heft)

私にとってポーランドという国は、ドイツとロシア(ソ連)という二つの大国の間に挟まれたことで、様々な歴史上の不幸に巻き込まれた国であるという認識がある。例えば、皆が名前は聞いたことがあるであろう「アウシュヴィッツ強制収容所」も、わざわざポーランドの土地に作られた絶滅収容所だ。また、そうした世界情勢に翻弄されるかのように、ザガエフスキー自身も、生まれて間もない頃に故郷を追放されており、また1976年以降は自身の著書が発禁処分を受け、さらに1981年からは当時のポーランド人民共和国が敷いた戒厳令により、1982年から20年ものあいだ移住を余儀なくされたりもしている。こうした事情も相俟って、かつてドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンがその栄華を極めしパリをして、そこを「19世紀の首都」と呼称したことがあったが、二度にわたる世界大戦が起こり、破壊と混沌をもたらした20世紀の「首都」とはアウシュヴィッツだと指摘する研究者も数多くいる。

さて、ザガエフスキーが世界的に有名になったのは2001年の例の詩が掲載されてからだが、ポーランド国内では、発禁処分という憂き目に遭いながらも、80年代半ばには名を知られていた。その中で最も有名な詩が、「リヴィウへ行く」という85年に書かれた詩で、亡命先のパリで発行された『文学ノート(Zeszyty Literackie)』という雑誌に掲載されたものが、サミズダート(地下出版物)としてポーランドでも読まれていた。「リヴィウは至るところにある」という詩で締め括られる長編の讃美歌「リヴィウへ行く」は、まさに自らの故郷を追われた後、再び故郷の喪失をあえて美しく歌い上げている。そこには、どれだけ置かれた状況が苦しくても、あえて人間の生を讃えるという彼の姿勢(ザガエフスキー自身は「輝きの探求」と呼ぶ)がこの時から貫かれていることが伺えるだろう。

ご支援頂けましたら、記事執筆や編集の糧にしたいと思います。蔵書を増やすと、編集できる幅が広がります。