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パウル・ツェラン「いかにして時は枝分かれするか、」翻訳+私見

いかにして時は枝分かれするか、
世界はもはや知ってはいない。
時は夏を奏で、
海が凍結する。

心が何でできていているのか、
忘却は知っている。
チェストや小箱、戸棚の中で
時が真に増大していく。

時は偉大なる憂愁から
美しい言葉を織りなす。
ここで そして 向こうで
あなたにとってそれは確かだ。

(『骨壺からの砂』および『罌粟と記憶』出版時期の散逸した詩)

◆私見
最近ずっと20世紀のノルウェー文学を読み漁っている。そして三連休中、まさに戦時中に当時のノルウェーを鼓舞した詩を発見した。翻訳はもう既に済んでおり、いずれ時勢と絡めつつ何かしら書きたいと考えているが、それを読んでいて思ったのが、戦争の悲惨さや強制収容所の過酷な体験を記した文学は、もちろんながら数多くある。
今パッと思いつくだけでも、V・E・フランクルの『夜と霧』、エリ・ヴィーゼルの『夜・夜明け・昼』、アンネ・フランクの『アンネの日記』、ソルジェニーツィンの『収容所群島』、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』、日本では大岡昇平の『野火』や『俘虜記』、野間宏の『真空地帯』などが思い付く。
しかし、私の専門が元々ドイツ文学だということを差し引いてみても、ドイツやロシアなどの大国に集中している。そのどちらもが「全体主義国家」であり、ヒトラーとスターリンというあまりに分かりやすい独裁者がその猛威を振るっていた国、という認識が既にできあがっているから、その国々で書かれた文学作品も他国に輸出されるようになっていったのではないか?
作品の質を決定付けるものは体験か、それとも言語か、という問いを思いつく。その試金石として私は戦後ドイツを代表する詩人パウル・ツェランを考えてみたい。ツェランはチェルニウツィー(当時ルーマニア、現ウクライナ)の敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれた。彼はルーマニアの学校に通っていたが、家庭ではドイツ語を用いていたということもあり、幼少期から多言語習得を余儀なくされていた。しかし彼は語学の天才で、英語やフランス語やロシア語などかなりの言語を習得していた。そして戦争が始まると、両親は強制収容所に送られ死亡。自身も強制労働に駆り出される。この時の体験を歌にした「死のフーガ」は、ツェランの代表作であり、戦争の悲惨さを記した文学の傑作の一つである。この詩の最大の特徴は、まさに母語であり、そして加害者の言語であるドイツ語で書かれたことであったと言っても過言ではないかもしれない。彼はルーマニア語やロシア語などでも書けたであろう詩を、わざわざドイツ語で書いたのだ。
それから彼は、その詩を戦後ドイツ文学集団の集まりである「47年グループ」の会合にて発表した(ちなみに、この詩を読んだ当初の反応は極めて微妙だった。というのもツェランがあまりにぼそぼそと読むせいで、あまり周囲に聞こえていなかったからだ)。その当時の音声……という訳ではないが、ツェランの朗読はCDになっており、YouTubeでも聞くことができる。

話が大分と逸れたが、言語がその作品の質を決定しているのではない、と仮定するならば、まだ言語的な事情により読まれていない作品を読み、正当な評価を与えることは、極めて重要な営為ではないだろうか。また、こうした作品の影響圏を考える上では、作品権力(Werkherrschaft)あるいは作品政治(Werkpolitik)という概念が手がかりになるだろう。

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