前回は言語学分野から「コミュニケーション能力」について見てみたが、今回はチョムスキーの術語に由来する Competence という用語を用いて、実際の社会学や討議理論へと昇華させたハーバーマスの思想を検討しよう。三島憲一はこの「コミュニケーション能力」の由来をハーバーマスにあるとしている(『岩波 哲学・思想事典』当該項目参照)が、実のところハーバーマスは、『コミュニケーション的行為の理論』の本文中では kommunikative (communicativeのドイツ語)という形容は行っておらず、単に Kompetenz (competence)という語を用いるのみである。
ちなみに、同書の英訳者であるトーマス・マッカーシーは、ハーバーマスの「コミュニケーション能力」について次のように記している。
ハーバーマスのコミュニケーション理解の極めて簡潔なまとめであると同時に、チョムスキー的発想の残滓が伺える。一見すると、文法よりも発話(実践)に重点が置かれているようで、実のところハーバーマスの考える合理性とは、対話における手続きや作法といったものを重視するため、批判可能性に対して冷や水をぶっかけるような発話行為は討議倫理に悖ると考えるのだ(そもそも相手を茶化したりする人物は、こんなハーバーマスの思想など元から眼中にないか、あるいは分かったうえで意図的に行っているかのどちらかだろう)。そのためマッカーシーは、ハーバーマスにおけるコミュニケーションについて、次のように続ける。
「反映媒体」と訳した reflexive Medium(reflective mediumのドイツ語)は、議論・討論を行ったりするための場所(雑誌や会議場、あるいはオンライン上)には、それ特有の様式があるということだろう。ともあれあらゆる文脈での発言(真偽を問うもの、有効性の是非、誠実さの正当性)が議論の俎上に登り、それらがいずれにしてもコミュニケーション的合理性によって理解に至る可能性を探る……という控えめに言っても理想主義的なハーバーマスのコミュニケーション理解がこの文章からも窺い知れるだろう。これをもしも「コミュニケーション能力」と規定するなら、この文章を読んで理解できない人間は、そもそも相手にならない、という極論まで導き出せそうだ。確かに広い意味では「読解力」も―著者との対話という意味での―コミュニケーション能力と言えなくもないだろうが、以上のような読解を踏まえた上で、実際の対話を合理的に行う能力にまで敷衍するのは、かなりの開きがあるとさえ思える。
……と、当初思い描いていた「コミュニケーション能力」からは大分と離れてしまったようだ。その語の起源を探る、という意味ではある程度達成できたのかもしれないが、どう考えても巷で使われている「コミュ力」理解とは、一ミリもかすってすらいないだろう。1960年代半ば(言語学)、1980年初頭(社会理論)のこれらの思想から半世紀以上経った今、世の中は「コミュニケーション能力」という文言が溢れ返っているが、おそらく厳密には言語運用能力でも討議倫理のものでもないコミュニケーションは、どこか日の当たらない場所で、密かに笑い声を上げていることだろう。