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コミュニケーション能力の起源について(2)―ユルゲン・ハーバーマス編

前回は言語学分野から「コミュニケーション能力」について見てみたが、今回はチョムスキーの術語に由来する Competence という用語を用いて、実際の社会学や討議理論へと昇華させたハーバーマスの思想を検討しよう。三島憲一はこの「コミュニケーション能力」の由来をハーバーマスにあるとしている(『岩波 哲学・思想事典』当該項目参照)が、実のところハーバーマスは、『コミュニケーション的行為の理論』の本文中では kommunikative (communicativeのドイツ語)という形容は行っておらず、単に Kompetenz (competence)という語を用いるのみである。

ちなみに、同書の英訳者であるトーマス・マッカーシーは、ハーバーマスの「コミュニケーション能力」について次のように記している。

ハーバーマスは、私たちのコミュニケーション能力には普遍的な核があり、全ての主体がある言語を話すことを学ぶ際に習得する基本的な規則があると主張している。コミュニケーション能力(Communicative competence)とは、単に文法的な文章を作ることができることに限ったものではない。私たちは話すことで、自らを取り巻く世界、他の人たち、自らの意図や感情、欲求と関わりを持つ。これらの次元のそれぞれにおいて、私たちは常に、通常であれば暗黙裡に思っているに留めていることだが、自分が言っていること、示唆していること、あるいは前提としていることの妥当性(validity)についての主張をしている。例えば、客観的世界との関係における、自らの発言の真実性についての主張を、あるいは、私たちの社会的生活世界で共有されている価値観や規範に関連した、私たちの発話行為の正しさや適切さ、または正当性(legitimacy)に関する主張を、さらには、私たちの意図や感情の顕在的な表現に関する誠実さや真正性の主張を行っているのである。当然ながら、この種の主張には疑義を挟まれたり、批判されたり、擁護されたり、あるいは修正されたりすることがあり得る。議論の主張を解決するための方法は何通りもある。―例えば、権威や伝統に訴えかけたり、力に訴えたりすることだ。そのうちの一つが、賛成の理由を述べたり、反対の理由を述べたりすることだが、それは伝統的に合理的思考の基本であると見なされてきた。そして実際、ハーバーマスが合理的思考を展開する上で注目したのは、抑圧のないコミュニケーションにおいて相互理解を達成するという経験だったのだ。(McCarthy 1984: x)

McCarthy, Thomas A., 1984, “Translator’s Introduction” In: The Theory of Communicative Action, Vol. 1: Reason and the Rationalization of Society, Jürgen Habermas, Boston: Bacon Press, v-xxxvii.

ハーバーマスのコミュニケーション理解の極めて簡潔なまとめであると同時に、チョムスキー的発想の残滓が伺える。一見すると、文法よりも発話(実践)に重点が置かれているようで、実のところハーバーマスの考える合理性とは、対話における手続きや作法といったものを重視するため、批判可能性に対して冷や水をぶっかけるような発話行為は討議倫理に悖ると考えるのだ(そもそも相手を茶化したりする人物は、こんなハーバーマスの思想など元から眼中にないか、あるいは分かったうえで意図的に行っているかのどちらかだろう)。そのためマッカーシーは、ハーバーマスにおけるコミュニケーションについて、次のように続ける。

彼の言うところの「合意(Verständigung)」に至るための鍵は、批判可能な妥当性のある主張に対して、理由や根拠を用いることで、間主観的な承認を得られる可能性にある。この可能性とは、先述した三つの次元のそれぞれに存在する。理由を述べて批判されたり擁護されたりするのは、命題の真偽や、目標達成のための手段の有効性についての主張だけではない。例えばある行為が特定の規範的文脈との関係において正しい、あるいは適切であるという主張や、もしくはそうした文脈に正当性があると見なされるだけの価値があるという主張も、このように論じることができるのである。さらにはある発言が、自らの主観的な経験を誠実に、あるいは確実に表現したものであるという主張もそうだ。つまるところ、これら三つの次元のそれぞれが、理由や根拠以外の力に頼ることなく、議論や洞察によって、議論の主張についての合意形成を図ることが可能なのである。それぞれの次元において、問題となっている妥当性のある主張を取り扱うための「反映媒体(reflective medium)」―つまり、疑義を挟まれた妥当性のある主張を主題化したり、立証したり、あるいは批判しようとしたりすることを可能にする、議論や批判の様式(modes)というものが存在するということである。(McCarthy 1984: x-xi)

McCarthy, Thomas A., 1984, “Translator’s Introduction” In: The Theory of Communicative Action, Vol. 1: Reason and the Rationalization of Society, Jürgen Habermas, Boston: Bacon Press, v-xxxvii.

「反映媒体」と訳した reflexive Medium(reflective mediumのドイツ語)は、議論・討論を行ったりするための場所(雑誌や会議場、あるいはオンライン上)には、それ特有の様式があるということだろう。ともあれあらゆる文脈での発言(真偽を問うもの、有効性の是非、誠実さの正当性)が議論の俎上に登り、それらがいずれにしてもコミュニケーション的合理性によって理解に至る可能性を探る……という控えめに言っても理想主義的なハーバーマスのコミュニケーション理解がこの文章からも窺い知れるだろう。これをもしも「コミュニケーション能力」と規定するなら、この文章を読んで理解できない人間は、そもそも相手にならない、という極論まで導き出せそうだ。確かに広い意味では「読解力」も―著者との対話という意味での―コミュニケーション能力と言えなくもないだろうが、以上のような読解を踏まえた上で、実際の対話を合理的に行う能力にまで敷衍するのは、かなりの開きがあるとさえ思える。

……と、当初思い描いていた「コミュニケーション能力」からは大分と離れてしまったようだ。その語の起源を探る、という意味ではある程度達成できたのかもしれないが、どう考えても巷で使われている「コミュ力」理解とは、一ミリもかすってすらいないだろう。1960年代半ば(言語学)、1980年初頭(社会理論)のこれらの思想から半世紀以上経った今、世の中は「コミュニケーション能力」という文言が溢れ返っているが、おそらく厳密には言語運用能力でも討議倫理のものでもないコミュニケーションは、どこか日の当たらない場所で、密かに笑い声を上げていることだろう。


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