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ソニア・ニェーゴー詩集『暗闇とは奇跡である』より三篇翻訳+解説

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光と闇(Lys og mørke)

I

僕は闇の方へ光を放つ
薄く見えるものはすべて皆
君が見る終わりだ
たとえ慰めが陳腐に見えたって
直喩にも耐える

それは沈黙でも
土地がひび割れた
原始的な地球でもない
それは夜の海と呼ばれ
大地の結晶の中へ
像が浸透するときに、
ただ静寂だけが聴こえる

II

木々の葉は消え去った
全ては剥き出し
太陽にとっては星であり
それは燃える
ただの星
そしてそれとともに燃える僕ら

―――――――――――――――――――

(それは心臓の大きさになり得る)
(Det kan være på størrelse med et hjerte)

それは心臓の大きさになり得る
それはつまり私がそれについて話し
そして書いていた罪
私は言葉とそれを
一斉に動かす
最初の像を
見つけることの意味を考える

言葉とは例え話であり
物語は続く、続く
どうすれば止められるのだろう
罪人たちが忘れられ
それぞれの性を
覆い尽くしたとき
私は無実への
罪悪感を数えている

――――――――――――――――――――

(終わりがなく始まりもない)
(Ingen slutt ingen begynnelse)

終わりがなく始まりもない
ただこの細い血管の中の温かい血が
ただ正午に狂人が歌い
この海の雫を誰もが見せつけ合う

(fra: Mørket er et mirakel)

◆「光と闇」解説
 前回に引き続き、ノルウェーの女性詩人ソニア・ニェーゴーの詩を紹介しようと思う。今回は、彼女の最新詩集『暗闇とは奇跡である』より、「光と闇」、「(それは心臓の大きさになり得る)」、「(終わりがなく始まりもない)」の三篇の詩を紹介する。まず「光と闇」は、前回訳した「(シーッ、彼は寝ているから出ておいで)」で既に述べていた、光と闇の対比そのものを主題にしている。また、前回では「元気をくれるもの」と訳した「慰め(trøst)」という語が両者共に使われている。そして「(シーッ)」とは異なり、語り手が光の側の視点に立っていることも注意されたい。
 そこで描かれるのは、まず僕が放つ光が、君が見る終わりであるということである。この時点で、太陽や星が想起される。光とは端的にはそれらのエネルギーが消費されて初めて私たちが見ることができるようになるものである。また、その際に訪れる「慰め」とは、かつて暗闇の世界へ向かったときに感じた「神様みたい」なものではないが、そうした「~のような」という直喩で語られることにも慣れており、非常に力強いものであることは窺える。ちなみに直喩と訳した sammenligning とは、比較・対比といった意味もあり、その慰めを何かと比較して喩えることもできる、という意味があるのだろうが、この詩全体で直喩は用いられていない。
 続く第二連では、闇の視点が描かれている。闇は、沈黙でも起源(=聖書にあるような「光あれ」という始まり?)でもなく、至るところで静かに、大地の結晶に像を結んでいく。ここでは沈黙ではなく、音がしないということがここでは強調されているように思える。光と闇という対比という観点で考えると、前者は言葉の、後者は行動の強さが語られている。すなわち、光はまず闇の方へ光を放つという行動が描かれるが、それを喩える言葉は耐久力があるということ、そして闇は沈黙という言葉のなさが最初に語られるが、後半では静寂を聴くという行動が書かれているのである。
 そうした対比の後、IIでは光を放つ太陽あるいは星の終焉が語られる。まさに地球滅亡の際のような、言葉や行動の対比すらも無意味と化すような、そんな瞬間。もはや終わりや始まりすらもなくなるような時間が訪れるのである。

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