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アダム・ザガエフスキー「サンビル」翻訳+解説

前回に引き続きアダム・ザガエフスキーの詩を紹介しよう。今回取り扱う詩は「サンビル」という、現在はウクライナ西部のドニエストル川沿いに位置する、小さな町を謳ったものだ。この町の歴史は極めて複雑で、ブリタニカ百科事典によれば、1241年にタタール人によって一度破壊された後に建設された町で、1387年から1772年のあいだはポーランド統治下、貿易や製造の中心地として発展してきたが、1772年から起きたポーランド分割により1918年までオーストリア領となった。第一次世界大戦前は、鉄道の連絡駅となったことで経済が発展したものの、1918年から1919年にかけて勃発したウクライナ・ポーランド戦争により、再びポーランド領になるが、1939年からはドイツおよびソ連によるポーランド侵攻により戦火に巻き込まれ、第二次世界大戦後にウクライナ領となった。

以上のように、サンビルとは戦争が起きるたびに国境が引かれ直されてきた町だった。そして1945年、第二次世界大戦終結間近の6月21日に生まれたアダムは、まさに生まれて間もない頃に故郷を追い出された。その景色を、詩人がある時ふとサンビルの町をさっと通過した時にフラッシュバックしてきたのだろう。第2連目には、そのサンビルの過去の町を眼差していることに注目して欲しい。

サンビル

あっという間に私たちはサンビルを走り抜けた、
瞬く間に、5分で。

ちょうどその時に母はここで、
高校を卒業したのだと思う。

夕暮れが近付いて来た、
葬送行進曲は流れなかった。

国道にはただ一頭の仔馬だけが小躍りしていた、
だが牝馬からは離れることはなかった。

自由は魅力的だ、
だが母親のそばにいることだってそう。

野原も森も
灰色の沈黙が支配していた。

そして再び小さなサンビルの町は
忘却へと沈んでいった。

車で町を通過した、たったの5分で、詩人はそこにタイムスリップしたかのように、若かりし頃の母親の幻影を見る。高校を卒業して、まさにこれからという時に戦争が、ザガエフスキー家をサンビルから追いやられる様子を追体験している。周囲を見渡すと、夕暮れが近付いていたものの、戦火の悲愴を告げるはずの葬送行進曲(ドイツ語ではTrauermärscheと訳されている、ショパンの曲)は流れてこない。この後に続く第6連でも「灰色の沈黙」が支配していると述べられていることからも、思い出の中は全く無音である。

そしてかつてのザガエフスキー一家が車で逃げ去る際に、詩人は同席している。すると一頭の仔馬が、野で楽し気に踊っているのが車窓から見える。しかし同時に、その仔馬は決して母親のもとを離れようとはしない。子供の頃、何も知らずにはしゃぎ回っていた頃の自分の姿が、ふと重なって見える……。そんな光景をふと思い出した詩人は、そこで我に返る。自分の背後へと流れていくサンビルの町は、まさに車で通過する速度で、忘却の彼方へと沈んでいくのだ。

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