見出し画像

H・M・エンツェンスベルガー「詩学講義」翻訳+解説

詩学講義

水曜日になるとこの爆音がして、
バンバン鳴る板金が悪臭を放ち、
バケットがゴミ輸送タンクに衝突して、
ドン! という音を立てて零れ落ちた

ものを全て食べて塵にしてしまう! それが
戻ってきたときのこの感動! この羨望!
この感謝! この虚しさ! 喜びと満足!

それから自分のテーブルを、自分の手を見てみると、
もはや灰はないし、ジャガイモの皮も残っていない。

より良い世界を、十分間だけ。
そんな有益な、ゴミ収集者のように
容赦なく親切な存在に私もなりたい。

(source: Gedichte 1955-1970

◆解説

この詩はエンツェンスベルガーが『詩集 1955-1970』で新たに書いた数少ない詩の一つである。そもそも彼は1964年以降、つまり第三詩集の『点字』の発表以降はほとんど詩作を放棄していたのだが、そうした状況下でもエンツェンスベルガーは、詩を―数こそ少ないが―書き進めており、時折雑誌等で発表していた。詩作が減った理由はおそらく、彼の趣向が遅くとも1970年以後にはドキュメンタリーに向かうこと、そしてここで新たに書かれた詩の多くが自省的な傾向が多分に含まれているからかもしれない。

実際、「二つの誤り」や「紙のシチメンチョウ」といった詩では、エンツェンスベルガー自身が依拠していたマルクス主義的な姿勢は鳴りを潜め、そうした過去の自分が皮肉的に、自嘲気味に描かれることになる(もちろん、それが単なる転向を意味すると捉えるのはあまりに早計だろうといった指摘はJ・カイザーなどによってなされているが)。ともあれ1970年代から1980年代への橋渡しに関する議論については『アレ』Vol.8の拙論を参照されたい。

さて、では詩の分析に取り掛かろう。まずこの詩では、ゴミの日である水曜日にゴミがどう回収・処理されるかといったプロセスが描かれているが、タイトルの「詩学講義」と詩の意味内容はかけ離れているように見える。実際にエンツェンスベルガーはアドルノに1964年から65年にかけてフランクフルト大学で詩学講義を任されていたが、そうした事実はほとんど関係ない。むしろこの詩は純粋に「詩学的」に、それこそ「詩学講義」としてこの詩は読まれるべきである。どういうことだろうか。

一見すると、この詩は4つの連(ストロペー)で構成される典型的な詩である。詩行は4,3,2,3と変化するものの脚韻は踏んでおらず、むしろ頭韻を基調としたある意味オーソドックスなエンツェンスベルガー的詩作である。第一連の原文を見てみると、

Wenn dann am Mittwoch dieser Krawall kommt,
das klirrende Blech knallt im Gestank,
die Kübel gegen den Dreckkessel donnern,
zack! das frißt und mahlt alles was abfällt


と意識的に k の音が使われていることが分かる。そして第一連以降では、同じ音の構造が繰り返されるというような手法は用いられていない。むしろ第一連から第三連までの過程では、ゴミが減っていくという過程が詩行の削除という現象を伴っていることが重要だろう。第二連ではゴミが回収され綺麗になったことの感動や虚しさという相反する感情を書き手が抱いていることが示され、続く第三連では実際にゴミがなくなったことが確かめられている(「もはや灰はないし、ジャガイモの皮も残っていない」)。ただし同時に、ゴミが決してなくならなることはなく、再び現れることをも示唆されている。だからこそ、「より良い世界を、十分間だけ」という文句で第四連が始まり―つまりゴミ箱が空なのはたった10分間だけなのだ―出されたゴミをきれいさっぱり取り去っていくゴミ収集人たちを讃えて第四連が3つの詩行で締め括られるのである。

ご支援頂けましたら、記事執筆や編集の糧にしたいと思います。蔵書を増やすと、編集できる幅が広がります。