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Xデザイン学校2023年度郊外研修旅行(京都)のリフレクション

はじめに

10/7(土)〜10/9(月)の三連休で2023 年 Xデザイン学校校外研修 京都フィールドワークとKA法に参加した。Xデザイン学校の京都フィールドワークに参加するのは今年で2回目。去年のリフレクションはこちら。11/21(土)が最終の成果発表なのでまだ終わりではないが、フィールドワーク自体は終わっているので、そこでの学びを記す。

ビジネスインタビューを自分たちなりに言語化してクライアントに伺う

10/7(土)のビジネスインタビューで、「京都にバーを開く」という今回のテーマの詳細を、クライアントに伺った。その日の夜、チームで夜ご飯を食べながらビジネスインタビューで伺ったことやその背景には何があるのかを話し合っているうちに、「クライアントは、ザ・京都人に認められたいという願望があるのではないか?」という仮説が浮かんだ。この仮説はチームであれやこれや話し合った結果として出てきたものだったので、チームとしては絶対この方向性で間違いない!と盛り上がり、確認のため翌日クライアントに我々の仮説をお伝えし、クライアントの願望を捉えられているか伺った。
その結果、我々の仮説は完全に外れていて、クライアントの願望は別のところにあるということがわかった。仮説は外れていたのだが、仮説をクライアントにお伝えすることによって、クライアントの願望をそれまでより一歩踏み込んで理解できた。

紙とペンでフィールドノーツをとる

去年と今年のフィールドワークを比べての一番の違いは、今年はフィールドノーツをとりまくったことだ。街頭でも、カフェでも、居酒屋でも、バーでも、紙とペンでとってとってとりまくった。
去年は、スマホのメモ帳に打ち込んだり、隠して録音したり、録音できなくても、インタビューが終わった後にスマホのボイスメモに見聞きしたことを吹き込めばいいと思っていた。手書きでメモをとりたい時でも、iPadとApple Pencilを使えばいいから、紙とペンなんていらないだろうと思っていた。でも佐藤郁哉さんの「フィールドワークの技法」を読んだり、RESEARCH CAMP in ITOSHIMAの講座で松薗さんのお話を聞く中で、紙とペンでフィールドノーツを取ることは、どうも大事なことらしいと思い、今年はそれを徹底的にやった。
今回、いつでもどこでも紙とペンでフィールドノーツを取ることを徹底してみて、わかったことが2つある。

1. 紙とペンでメモをとることは、それ以外に何もしていないことの証明になる

今回最初にフィールドノーツをとったのは、初日の夜に祇園のバーでママのお話を伺っていた時だ。本当はメモを取っていいかの許可を得るべきだと思うが、許可を得る前にママがお話を始めてくださったので、とりあえずメモ帳とペンを鞄から取り出して、ひたすらメモをとり続けた。目の前でメモをとっているのだから、ダメだったら指摘してくれるだろうと思ったからだ。この時、スマホでメモをとることに対する、紙とペンでメモをとる優位性を感じた。聞き手が紙とペンでメモをとる姿は、聞き手が話を聞くことに集中していること、そして逆にそれ以外は何もしていないことが、話し手にわかりやすく伝わるのだ。これが紙とペンでメモをとることの一つの良さだ。
これがスマホだったら、話し手にはどのように伝わるだろう。録音・録画を疑われるかもしれないし、話を聞かずに何か別のことを検索しているように見えるかもしれない。またチームメンバがみんなスマホを出していたら、実は裏でLINEでやり取りをしていて、帰るタイミングを図っていると思われてしまうかもしれない。仮に聞き手が真剣にメモをとっていたとしても、スマホを持っている様子からはそれが伝わりづらいので、話し手に上記のような懸念を抱かせてしまうリスクがある。こういったリスクが発生し得ないのが、紙とペンの良さだと感じた。

2. 話し手が自らメモ帳に書いてくれて、得られる情報の幅が広がる

居酒屋でも紙とペンでメモをとりまくった。そうすると話し手が「めっちゃメモ取ってるじゃないですかw」と言いつつも、必要な時には「ちょっとメモ帳貸してください」といって、私だと書けない情報を書いてくれることがあった。以下のような感じだ。

ネパールの方と飲んでいた時、「Rakshi」というネパールのお酒の名前を書いて教えてくれた
京大生が、京都の北の方の地図を書いてくれた

打ち合わせをするときに、ホワイトボードがあるとなんだかんだ便利と感じるのと、全く同じだと思った。

検証して情報に厚みを出す

去年のフィールドワークで「京大生は鴨川より西に行かないし、同志社の学生は鴨川より東に行かない」と言う話を聞いたが、その後先生に「そうなんだ。本当に?」と聞かれた時、この話は1名からしか聞けていなかったので、答えられなかった。今年のフィールドワークでは何名かの京大生や同志社の学生に会ったので、この件について聞いてみたが、「あー、それわかります!」と共感を得られて、去年のフィールドワークで聞いたことは間違っていなかったんだと確信を持てた。フィールドワークで聞いた情報は、自分が足で稼いだ情報ということもあり、どれもそのまま信じたくなってしまうが、複数人に聞くことで情報の厚みを出すことは大事だと思った。

チームでフィールドワークするコツ

チームでフィールドワークする中で、インタビューによってインプットを増やすための時間と、分析によって次のアクションを決めるための時間とのバランスを取ることは、とても難しい。
分析は最悪あとでもできると考えてインタビューばかりを優先すると、チームメンバの中でも共通理解ができず、街頭で声をかけたはいいが、何を聞けばいいかわからなくなってしまう事態となる。
かといって分析をしようとすると、お互い見聞きしてきた情報の共有だけでもやたらと時間がかかってしまい、共有したはいいけど、結局なんだっけ?という状態になってしまう。
こういった状況に対して、今回うまく対処できたわけではないのだが、次回チームでフィールドワークをやる時には試してみたいと思ったことがある。それは、インプットを得る度に、それぞれのメンバの心に浮かんでいる「問い」を共有し、その「問い」に答えるためにはどうすればいいかをチームで考えながら、次のインタビュー先を検討することだ。こうすれば、声をかけたはいいが何を聞けばいいかわからないことは無くなるだろうし、お互いに見聞きしてきた情報の共有に時間をかけてしまうこともなくなる。端的にお互いの中にある「問い」をぶつけながら、次に向かうのだ。
繰り返すが、これは今回できたことではなく、今回の反省をもとに、次回こうしたいと考えたことなので、これがうまく回るのか、今はまだわからない。来年のフィールドワークでぜひ試してみたい。

グルーピングする危うさに対する意識が薄い

グループワークをする中で、グルーピングをすることってよくある。今回のフィールドワークに限った話ではなく、本当によくある。個人ワークで付箋を書き出してから模造紙などに貼り、もし先に話した人と似た付箋を書いていたら、「あ、それ私も書きました」といって付箋を重ねるようなワークだ。グループワークのド定番のワークだと思う。グループワークって普段やらないワークの連続だからすごく疲れるが、グルーピングはド定番だから流しながらでもできてしまう。

と思い込んでいた自分に、グループワークの後になって気づいて、これはまずいと反省した。
グルーピングは、似たものを一つのグループにするが、あくまでそれは似たものであって、同じものではないのだ。そして何を持って「似ている」と判断するかは、その付箋を書いた人の判断に委ねられる。(「似ている」と判断した人に対して、横から「いや、それはXXXという理由で似ていない」と口を出すことも可能と言えば可能だが、実際これをやるのはかなり難しいものがある。)
グルーピングを目的としているチームは、もともと30個あった付箋が20個にグルーピングできた時と、10個にグルーピングできた時とで、どちらがうまくグルーピングできたと感じるだろうか?それは出来上がったグループの数が少ない、別の言い方をすれば集約率のいい、10個の方ではないだろうか?
今回フィールドワークでのインサイトをグルーピングする中で、当然のように上記のような考え方をしている自分に気づいて、いかにそれが危うい考えかを自覚した。
自分たちはフィールドワークをすることで、ネットに掲載されている情報や、誰かから聞いた情報からでは得られない、その場に行かないとわからないような、繊細な情報を探していたはずだ。こういった情報は、グルーピングをする中で失われ、大味の共通点だけが残ったグループになってしまうリスクがある。そうなってしまうと、フィールドワークの意味がなくなってしまう。このリスクを見落として、今回ただ漫然とグルーピングをしてしまった自分に後から気づいて、猛省した。

自分自身、ワークショップを設計したり、ふりかえりの場をファシリテートする中で、グルーピングを促すことはよくあるが、グルーピングに潜むこの危うさには、今後十分注意したいと思った。グルーピングを目的としたワークをすると集約率を追ってしまう気がするので、ワークショップの設計や声かけの工夫で、「共通点」だけではなく「差異」にも意識を向けられるようにしたいと考えた。

京都に住む人々の美的コンバットが京都を作る

ここまでは、京都に関する学びではなく、京都でのフィールドワークを通しての学びを書いてきた。最後に、今回のフィールドワークを通しての、自分なりの京都像について記したい。

「知的コンバット」という言葉がある。経営学者の野中郁次郎先生が提唱された言葉で、考え方の異なる人同士が、お互いの主観をぶつけ合って、ぶつけ合って、その先で、「やっぱりこうとしか言いようがないよね」と両者が納得できる知を見出す対話のことだ。野中先生はこの知的コンバットが、イノベーションの源泉とおっしゃっている。

今回のフィールドワークを通して、京都の人々がそれぞれに世界観(美学と言ってもいいかもしれない)を持っていること、そしてその世界観をお互いにぶつけ合うことで、自分自身の世界観の成長に繋げたいと思っていることがわかった。(自分たちがインタビューした人が偏っている可能性はあるが、割と色々な人からこう言った話を聞けた印象はある。)
また京都という街自体も、時代時代で人を受け入れて変容しつつ、でも昔からの文化を大事にすることで、成り立ってきたと聞いた。京都は、「みんなで京都を作ろうとしている」のだそうだ。
こう言った話を伺った今、自分の中の京都像を一言で表すと、「京都に住む人々の美的コンバットが京都を作る」という言葉になる。(美的コンバットというのは、知的コンバットをベースに私が勝手に作った造語)
京都に住む人々は日々その世界観をぶつけ合っていて、その結果として店の入れ替わりが発生し、その積み重ねが京都を作るということになるのかなと今は理解している。
これは去年、今年と京都に2回訪れただけの千葉人の勝手な幻想でしかないかもしれないが、今はこう思うので、記しておきたい。

おわりに

1年目も楽しかったが、2年目はもっと楽しかった。3年目がさらに楽しかったらいい。今回のフィールドワークを企画・運営してくださった先生方、チューターの皆様、3日間ずっと一緒に過ごしたAチームの3名、一緒に学んだ他のチームの皆様、そして京都の街の皆様、本当にありがとうございました。

去年行ったバーでおすすめされた天狗食堂に、一年越しで行けた
「あの中華そばは美しい」と評されていた中華そば。マジで美しかったし美味しかった

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