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「盗用」のグレーゾーンについて/大槻香奈の発言を受けて

この世界には、未だに明文化されていないものの概念領域として存在する悪(かもしれないこと)が多数あります。例えば昨今のポリティカルコレクトネスのムーブメント、ジェンダー論、文化の盗用問題など、遡れば公民権運動、自由民権運動でも「それまで当たり前とされていた搾取/抑圧構造」に対して声を上げ、批判を受けながらもその権利を獲得して来た歴史があります。
多くの人々はそれが当然のこととして捉えているために、当初は拒否反応を示したり、またはそれが搾取構造であると認識できない(前提条件が異なるが故に受け入れられない)という状態となります。

しかし、搾取/抑圧されていた側が声を上げることで、少しづつ総体としての人々の認識は塗り替えられて新たな「当然」が育まれます。その新たな認識は日進月歩更新されていきます。メディアの拡大やSNSによる情報ネットワークの網羅によってそのスピード感は歴史上、現代が最速であることは疑うべきところではないでしょう。

「盗用」という概念も、その言葉が指し示す領域をじわじわと拡張しています。研究・学術界でのオリジンに近い定義としては以下のようです。

研究不正を、研究の提案、実行、評価、結果発表における、捏造、改ざん、盗用と定義する。盗用は、適切なクレジットをしないで、他人のアイデア、作業過程、結果、語群を横領することである。ただし悪意のない間違及び意見の相違は含まない”」
アメリカ公衆衛生局による定義/wikipediaより

この定義が示す領域も曖昧であり(このポイントについて述べたらそれだけで論文が書き上がってしまうのでここでは深追いはしませんが)、また先に挙げた「文化の盗用」の如く「他者のアイデンティティとして属する特性を異なる文脈で不当に利用する」というような意味合いで捉える事も一般化しつつあるように感じます。学術界の研究における「盗用」の意味だけでは現状片手落ちです。

先日、美術作家である大槻香奈氏が庄司理子氏に対し「自らの作品の盗用である」という発言をし物議を醸しています。ここで言及される「盗用」とは何を指しているのでしょうか?
その指し示す領域が、僕が日々抱えている問題意識とリンクするためこの文章を書いています。詳しくは後述しますが、「暗黙の了解となっているグレーゾーンに対して疑問を投げかけ、現代における影響/引用/盗用、模倣の在り方について警鐘を鳴らした」という事がこの案件の本質である、と僕は捉えています。

(記事のこの先、当該作品が「盗用」であるか否かに関し作品やその技法上の比較検討は一切ありません。それはこの論旨ではありませんし、僕自身はそれをジャッジする立場にはありません。)

今この時代を生きる我々は、現代にフィットした形での倫理観を身に付けながら、未来の可能性を潰さないための適切なシステムを構想しなければなりません。
現時点で明確な答えもなければ、具体案をここで示すつもりはありません。ここに書かれる事態を元に少しでもあらゆるクリエイティブが抱えるジレンマについて知り、何かを作り出す人間とその作品の重みに目を向けて欲しい、という願いでいます。

先ずはひとつのエピソードを提示します。僕の父親は陶芸家、一時は家業の企画販売にも携わっていました。その頃の話を先日Twitterでこのように投げかけました。

法律でカバーしきれない剽窃の一例です。著作権法の穴についても書くべき事は多々あるのですがまた別の機会に。まずは「法律で保護しきれない盗用の範疇が存在する」という事をご理解頂きたいと思います。おそらく同様の問題が陶芸界のみならず、クリエイティブ業界全体で頻発しているはずです。表に出ることの無かった剽窃の数々、声を挙げて訴えられる事無く忘れ去られ消え去った被害の数々がこの世には存在しています。

無論、「完全なるオリジナル」というものはこの世界に存在しません。
(西洋社会ではかつてそれを「神」と呼ぶ時代もありました。でも死にました。)
全ての創作活動は何かしらの影響を受け、先人の営みを引用/編集して行われます。その引用/編集の履歴こそが「歴史」と呼ばれるものの一側面です。歴史無くして新規性は存在しません。そしてその引用/編集作業のどこまでが正しく、どこからが不当であるかはその時代の倫理観によって線引きが大きく揺れ動きます。著作権法の出自が「作者の利益を守るため」に成立したのか、それとも「出版社が利益を得るため」のシステムであるのか、その成立過程について調べてみると面白いです。

では論を前述の大槻氏と庄司氏、そしてその取扱いギャラリーであるondo galleryの件に進めましょう。前提として僕が勤務する「白白庵」も大槻氏を取扱うギャラリーであり、大槻氏の作品は勤務するこの数年、間近に接してきた事は述べておきます。そして僕個人がこの三者の誰をも非難するつもりもなく、この件については建設的な結果が示され、三者のみならず業界全体の発展を促すところに落ち着いて欲しいと心から願っています。
的外れに行われる表面的な技術の巧拙に関する話題や特定の人物に対する誹謗中傷から議論をあるべき領域に引き戻したい、という事もこの文章の目的のひとつです。

発端となった発言の時点から終始、ondoでの両者の取り上げ方について疑問を呈しています。庄司氏への盗用有無に関する質問はその過程に於いてであり主目的ではありません。以下、大槻氏のTwitterから引用です。


そして庄司氏への盗用有無の確認へと続きます。

正確性を優先するあまり引用が長くなりました。一貫して「主に自分とギャラリーの問題」と述べています。引用内にも記載がありますが、捕捉すべきポイントは大きく二点です。

①ondoが大槻氏の美術作家としての歴史をアーカイブ本を作成する仕事も担っていた。

②大槻氏の主張する「盗用」と庄司氏の認識する「盗用」に概念上のズレがある。

①について。美術史上に於いてその作家の立ち位置や歴史的意義についてはキャリア構築のため非常に重要な意味を持ちます。作家が亡くなってもその作品は残ります。そしてその作品と作家の履歴が明らかでなければ、後世の美術史上での位置付けが非常に難しくなります。
今を生きる事と、その未来を構築するための準備が同時並行で行われます。言い換えれば歴史は現在進行形で紡がれているのです。
自らの作品を盗用したと思われる作家を、作品をアーカイブするギャラリーが登用する事は本末転倒です。
もし庄司氏の個展が全く別のギャラリーで開催されていたのであればこのような問題にはならなかったでしょう。

大槻氏の第一の主張はここにあります。これが「ギャラリーの問題」と述べる意味です。その怒りの矛先はギャラリーに対して向けられています。
その作家が過去の歴史を受けてどのような文脈に立ち、そしてどのような影響を与えているのかを明らかにする事もギャラリーの努めです。(自戒)

②について。言葉のやりとりに於いて大槻氏の「盗用を認めるか?」という質問に対し庄司氏の「盗用盗作ではない」という返答がされています。この概念上のズレを感知した事で大槻氏は(自分の主張する領域での)「盗用である」という結論に至ります。このズレそのものが(大槻氏の主張する領域での)「盗用」の裏付けともなったのです。

先述の通り、このnoteでは具体的にどの部分が「盗用」であるのかは追求しません。具体的に述べたところで何の利益もありません。ナンセンスです。一部で言われているように「大槻氏が才能ある若手に嫉妬して潰そうとしている」のであれば具体論を述べれば良い。しかしそうしないという事はそれが主目的では無い、という事です。本人達が明らかにしないのであれば、外野が言及する必要はありません。

整理すると「取扱いギャラリーが先駆者からの引用を明らかにせず、影響関係にある文脈を有耶無耶にしてしまう事」を問題としており、それが結果として「盗用」を助長する行為であるとの認識を大槻氏は示しています。(庄司氏の発言から影響/引用、盗用/盗作の線引きが曖昧である、と読む事もできます。少なくとも大槻氏の線引きとは全く異なっています。)

繰り返し述べますが、僕はこの記事に於いて三者の誰をも批判するつもりはありません。各々に守るべき正義があり、それぞれの立場があります。美術業界に身を置く人間の一人としてそれを尊重すべきだと思います。

僕が問題としているのはあくまでも暗黙の了解によってクリエイターが被る不利益についてであり、またそれを許す法体系も含めたシステムそのものです。もう一端として、本来であれば俯瞰して捉えるべき大きな問題を個人の好き嫌いに還元して議論の本質をマスキングしてしまうような人間の態度です。

研究職の世界では引用元を明記しない剽窃を行った場合、業界からの追放等の社会的制裁が待っています。しかしながら論文であれば引用元を表記するスペースとシステムがありますが、美術作品やプロダクトには存在しません。そのスペースが存在しないのであれば、引用を明らかにする事はできない、明らかにする事ができないのであれば暗黙の了解で受け流すしかないのでしょうか?解決策はあるのでしょうか?
解決策が現状見出せなくても、被害者は確実に存在します。(かつての父のように。声を上げられなかった多くのクリエイター、声を上げてもそれを肯定するシステムや倫理が無かったが故に握り潰された多くの歴史があります。)
「そんな事に時間と労力を費やすなら、放っておいて次へ進もう」という姿勢は泣き寝入りをポジティブに言い換えただけです。

模倣そのものは悪い事ではありません。
「まなぶ」「まねる」は同語源であり、前例を真似て学ぶことなしに発展はありません。問題が発生するのはそのやり方に於いてです。
学術論文以外での影響/引用/盗用/剽窃/奪用の線引きは非常に曖昧です。
結局は倫理的な問題に立ち戻らざるを得ません。
完全なるオリジナルが存在しえないのであれば、常にその歴史的文脈や影響関係に自覚的であり、先人に敬意を払う必要があります。

現状の法体系では解決されない剽窃の問題に苦しむ全てのクリエイターが報われる状態へと、少しづつでもこの世界が良い方向に進む事を願います。
インフラとしての法体系が整うには時間がかかるでしょう。
しかし、今を生きる我々の意識はそれよりは早く変えられます。
もしもかつての父のように諦めている人がいるならば、今回の大槻氏のように盗用されたという疑念を持つ人がいれば、声を上げましょう。
それに勇気が自分にとって大きな負担であるならば、僕や似たようなことを考える誰かに伝えるだけでも良いです。(何ができるかは分かりませんが)

「盗用」を巡る今回の一件が、単なる炎上/スキャンダルとして消費されず、引用や模倣という文化発展の根幹に関わる問題として記憶に刻まれますように。そしてより良い方向へ文化と歴史が更新されますように。


補足① 当記事は「大槻香奈が提起した問題を分析し整理すること」及び「その発言を受けて僕自身が疑念を抱く引用/模倣/盗用にまつわる問題提起を行うこと」が目的です。記述内容は大槻氏の発言に関する分析であり、盗用の有無を結論づけるものではありません。

補足② 工芸の世界では先駆者のコピーをする行為を「写し」として肯定的に捉える向きがあります。その場合「○○写し」と表記するのが一般的です。
オリジナルが何であるかを明記する事によって、作品価値を高める手段です。写される事によってオリジナルの価値が高められ、新作にとってはオリジナルの存在がその価値を決める補助線となります。
「模倣」「引用」が肯定的に行われる一例です。これについてはまた別の記事でまとめようと思います。

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