見出し画像

「うとまれる発達」を情報という視点で考える

情報量の定義式

  子どもの成長について、不安が大きくなっている現代において、子どもの成長、発達に関する情報の意味について、情報理論という、少し斜めの視点から考えてみます。

情報の「量」を測る

 昨今は、「情報にあふれている」という言葉を聞かない日はないのではなかろうか。では、情報の「量」とは、厳密には、どのように測るものなのだろうか。数学的な情報量は、上の式のように定義されます。
 この情報量の定義式の意味するところは、確率の低い事象が「起きた」という情報に含まれる情報量は多い(と定義されている)とういうことです。 
 つまり、起きることが「まれ」な事象が生じたという情報に含まれる情報量が多いということであす。

 「子どもの姿」に関する状況で説明すると、一般的な子どもの姿とは異なる発達を見せたということを知った場合に取得する情報の量は多く、一般的に「そういうことはできるだろうな」という発達に関する情報では、その情報量は少ないということです。
 従来の用語法で言えば、定型発達しているという認識や通知に含まれる情報量は少なく、非定型な発達を見せているという認識や通知に含まれる情報は多いということになります。

 さて、そもそも私たちが情報を欲するというのは、何が起きるかわからないからです。起きて当然のこと、つまり確率100%の事象が起きたという通知には、情報は何も含まれていないのです。
 ということは、情報を欲しているときには、どういう情報がもらえるか判別できていないということです。この場合、得られるのは情報量そのものではなく、ある通知やある観測ができた場合の情報量の期待値(確率的な平均値)が大事ということになります。
 この考察から分かることは、ある事象群の発生する確率、可能性に偏りがあるとき、例えば事象Aが発生する可能性が9割で、他の事象Bが発生する可能性が1割の場合は、どちらかが起きたという情報の持つ情報量の事前の期待値はそれほど大きくないということです。
 他方、5分5分でどちらが起きるかわからないという状況では、期待情報量が最も大きくなわけです(この関係をグラフにしたものが、冒頭の図の右側のグラフ)。

非定型発達の元でこそ情報の「量」が増える

 保育過程の文脈に置き直して、情報量の定義式について考えると、やはり定型と非定型の発達把握という思潮の変化に突き当たりました。
 定型発達という概念の元では、子どもがみせる新しい発達の主観的予測が立ちやすい、つまり、新しい発達を見せる主観的な確率、可能性が偏っているということになります。ということは、子どもの発達に関する通知についての期待情報量が少ないということになります。

 一方、現在の発達をめぐる考え方は変化し、子どもの発達過程は一人ひとりの個性なのであって、定型発達という発想は基本的に否定されているといえるかと思います。とすると、目の前にいる子どもが、次に見せてくれるかもしれない発達の姿が何になるのか、安易な予測を許さなくなっています。

 それゆえ、実は、先の定義式から、ある発達が発生した又はその逆の通知や観察に含まれる情報量が多くなっているという、意外な結果につながるのです。
 保育所保育指針や幼稚園教育要領において、繰り返し、子ども一人ひとりについて丁寧に把握すること、子どもの「今」を丁寧に理解することの重要性が述べられています。定型発達に重きが置かれなくなっている現在、まさに、そのような目の前の子どもについての把握の意味が増していることが、実は、この情報量の定義式からも説明されるのです。


「うとまれる」発達

 さて、北海道大学の川田准教授の『保育的発達論のはじまり』(ひとなる書房)のp119で、「(5)うとまれる『発達』」という「衝撃的な」小見出しの元に、次のようにつづられています。

「他の親子とかかわることそのものが、つねに緊張をともない、『うちの子』への不安をかきたて、親としての自尊心が傷つくリスクと感じられるようになりました。このような時代状況において、親たちにとって『発達』は知りたい情報であると同時に、自分をおびやかしさえする両刃の剣に変容したと考えられます。科学がすすみ、生活が便利になるなかで、物事を予定どおりにコントロールすることになれきった私たちにとって、『発達』を知ることは、子どもの未来を予測し、おとなの期待にそうようにできるのではという“錯覚”を呼びこんできたということはないでしょうか。でも、わが子は育児書のようならないし、むしろ親の期待を逆なでしているのではないかとすら思ってしまう日常がありました。」

 孤立する子育てという状況下で、保護者にとって、「わが子の発達」は無限定に喜ばしいことではなく、標準、あるいはその標準から導かれるとされる「予測」、他の子どもとの比較をしてしまう結果、「自尊心が傷つくリスク」とまで言われています。そのような厳しい状況におかれている保護者に、「定型発達は気にしなくてもよいのだ」とだけ言っても、不安は解消されないではないでしょうか。

 むしろ、保育所保育指針でも幼稚園教育要領で強調されているように、子どもの発達を、何か一つ一つの行動ができるようになるという「孤立した事象」としてとらえるのではなく、「子どもの姿」が比較的長い時間をかけて変化していく過程(発達過程)だということを保護者に理解してもらうことが大事なのだと思います。
 そうすれば、過去から現在までの積み重ねとしての個性的な子どもの姿を理解することに意味があるのであって、標準や他の子どもの姿と、表面的に比較してもあまり意味がないことが理解してもらえるでしょう。
 とすれば、子どもの発達過程は連鎖的、累積的に進むものであり、そのような子どもの姿の変化を観察し、記録とし、その記録から確認できるインサイトを保護者と共有することが大事となってくることになります。


秩序(法則性)と多様性を両立させた、子ども理解

 とはいえ、定型発達、つまり「子どもの発達とは、こういう時期に、こういう順番で進む」と通念が否定されれば、そこにある子どもの姿の変化は、「無秩序」となって、インサイトもなにもないという悲観論、不可知論に陥るかもしれません。
 しかし、このような連鎖的、累積的に変化する事象を数学的に表現し、分析する道具立ては存在しています。

 それは、「マルコフ過程」というものです。 
 ここでは、このマルコフ過程について詳細に説明することはしませんが、イメージで言えば、秩序のあるルールから、確率的に非常に多様な変化、すなわち事象の連なりが、いかにして生まれてくるのかを表現し、分析できる道具立てです。

 このマルコフ過程の分析においては、次の変化として何が起きるのかを一つに定めるのではなく、現時点に直接、遡及的に連なる、過去から現時点までの一連の変化を「状態」として把握し、その状態に基づいて、次に何が起きるのかを確率、可能性として把握することになります。
 つまり、一定の確率的な秩序を前提としつつ、一人ひとりの子どもの個性的な変化の履歴を踏まえた、発達過程の把握を可能とするのです。
 子どもの発達過程をマルコフ過程という枠組みで理解しようとするならば、無秩序が広がっているのではなく、秩序(法則性)と多様性を両立させた理解が可能になるのではないかと思っています。


保育過程への情報理論からのアプローチ

 冒頭に紹介した情報量の定義式やマルコフ過程という数学的道具立てには、面食らった読者もおられるかもしれません。
 こういった数学的道具立ては、目下盛んに研究、応用が進んでいる「機械学習」という計算技法の土台となっているものでもあります。

 勿論、子どもの姿を丁寧に把握することの重要性は保育実践の積み重ね、その研究、分析から生み出された知見です。そして、「子どもの姿の把握」も、専門職としての保育士及び関連職種に従事する皆さんの知的活動の成果であり、子どもの姿に関する情報を処理するという側面があることも否定できません。
 そのため、一見、遠く見える保育と数学、情報理論も無関係ではないのです。もっと強く申せば、保育職の活動、そして、保育過程における情報の重要性の根拠に、こういった情報理論からアプローチすることによって、新しい知見が開かれるのではないかと期待しているところです。