優秀な人材とのパートナーシップについて

問題意識

若かりし頃は、経験を積んだ実績のある諸先輩がたが皆優秀に見えたのは記憶に新しい。今では、相対する方々のレイヤーが上がっていることにより、ますます優秀層に接する機会がどんどんと増えているものの、若かりし頃と同じ感想を抱くことはなくなりつつある。
その要因は様々あるが、その中でとりわけ感じてきたぼんやりした事柄が、自分の立ち回りの変化に伴い、新たな視点を持つに至りつつある。そこで、この点について少し文字に残してみようと思う。

何に対して「本気」か?それはなぜか?

皆さんの周りにどれだけ「本気」で問題解決しようとする人がいるだろうか?ほとんどの人にとっては思い当たらないか、数名程度いるかもしれない、これらがおそらく大半の方の思い当たるところだろう。

または、自身の成長やキャリアアップには熱心なタイプの人材もいるだろう。かつて、自分もそうだったと自覚する。こうしたタイプは目の前の事柄にハードワークすることは厭わないが、肝心要の「本気」で問題解決しようとするかというとそうではない。

もう少し踏み込んでみよう。短期的な成功を必要とする人にとって、水面下で目にみえる効果が期待できないフェーズを耐え抜くのは非常に難しいのである。

しかし、自分が本気で問題解決しようとしている人にとって、その水面下で効果が見えない苦しい時期を一緒に戦える人をこそ欲していると本気で思うようになった。

さらに経済的な側面を加えていくとこれはもっと立体感を持ってくる。具体的には、効果が見えないのに予算集めや投資を促す活動をしなくてはならず、その上で自分ではどうにもならないが、この難しい局面を乗り越えてくれるパートナーを探しているのである。近年、「スタートアップでこそそのような体験ができる」とイメージしやすくなっているが、私はこれについて「事業会社」だろうが「大企業」だろうが心持ち次第でこのような体験をすることができると思うようになった。

客観的に「優秀」であることと、主観的に「優秀」であることは異なるのではないか?

やや脱線してしまったので、今度は最初にあげた「優秀」という意味についても考えてみたい。

まず各組織で「ステップアップ」していく人材について客観的にみたときに、所属する組織の価値観を織り込まずに優秀と決めつけるのは危険である。ましてやその価値観が、今自分にとって本当に必要なことなのかというのがますます重要である。具体的にいうと、当然その組織の売上を立てたり、影響ある仕事をした人というのが端的に昇格していく人材と言えるだろう。
今時、自社あるいは個人として仕事を推進するのはもはや無理と言って差し支えないだろうから、いかに向き合っている問題や取り組みに共感してもらえるかが鍵であると言えるのではないだろうか。

その両方を兼ね備えている人材がいると良いのだが、非常に稀有な存在であることは言うまでもないし、おそらくそのような人材は自分で成し遂げたい「パーパス」をしっかりと持っていると思われるため、自分目線で見たときに同じ道を歩める可能性やその期間の長さに大きな期待をするのは合理的ではなさそうである。

おそらく、ケイパビリティの観点で「本気」の問題解決に必要な順序は、「共感(夢も含む)」>「パッション・Will」>「スキル」の順で考えると良いのではないかと思う。
現実問題、スキル不足は育てる・補うと言いたいところだが、綺麗事として自分たちのリソースが厳しくなるだろう。しかし、そのリソース不足の状況もうまく乗り切れるかどうか、そこで相手ではなく自分自身の本気度・パッションを試すモチベーションで戦うことから”魅せられる何か”を信じたい。”魅せられる”と言うことは見てもらわないと始まらない。唯一相手に求めることとすれば、煮詰まったり追い詰められたときに自分のことでいっぱいいっぱいになったとしても”俺の背中を見ろ”と言うこと、よってどんなに苦しくても周りを見られることだけは必須要件かもしれない。

書いていて、令和5年に文字にするには恥ずかしいような内容になってしまったが、本心から言えることなのであえてこのままにする。

パートナーとの向き合い方

基本的にはここまで書いてきた、自社内目線の人材要件の別の視点が重要になると考えている。それは、「パートナーにとっていかに魅力的な問題か/ その価値は何か」といった言うなればブランディングを強化し続けることに他ならない。さらに端的に言えば、選ばれる仕事を作ると言うことである。

ある意味では試金石である。自分にとってどれだけ価値があったとしても、他の視点から見たときに価値が感じられないのだとすれば、それそのものが価値が低いか、あるいはブランディングやメッセージングがその価値を示しきれてないかのいずれかであろう。冒頭にあげたようなパッションのある優秀層で、各々の組織でキャリア・ステップアップをしていくような人材が本当に価値のあることに関わらないことはあまり想像ができない。

加えて言えば、社内に優秀な人材がいないときは、外部のパッションある優秀な人材や各領域のプロフェッショナルに育ててもらうことになるだろう。自分も然り、また先にあげた”スキルよりもハートを優先した人材”も然りである。その観点で言えば、必ずしも長期的な伴走を全員に求めるかというとそうではない。しかし、単に見える成果を上げてもらうだけでは、それはそれでもったいない。真の成果とは、後に活かせる人材や知見、プラクティスそのものの価値に他ならない。

本稿を書き始めた目的と、ここまで書いてきた自分の書きたいことの変化

私はかつてプロジェクト管理とは、プロジェクトの成果を実現することがゴールだと思っていた。組織や経営視点で物事を考えると、単に成果を上げることは、良いとも悪いとも言えなくなった。そもそも、正しいゴールや目的をうまく設定できずにゴールに向かっている仕事も世の中にも身の回りにも大量にあることは言うまでもない。

今回、書きながら当初の趣旨と徐々に方向性が変わっていったと自覚する。

実は当初は「一般的には優秀と言われる層と働いていても、実はそうでもない場面が多い」と言うことについて書こうとしていた。書いているうちに、むしろその状況に対してどのように立ち向かっていくか、あるいはどのようなことを大事にしなければならないかを考えるきっかけになっていった。

詰まるところ、本稿は組織やプロジェクト、事業を進めるにあたっての「リーダーシップ」の問題について考えるきっかけになっている。

単なるプロジェクトリーダー・マネージャーではいけない

日本企業の多くのプロジェクトリーダーは、複数のプロジェクトを掛け持ちせざるを得ない状況にある。私も例に漏れない。

単に成果を上げるだけでなく、関わった人に対してどのような影響を与えるか、そのために尽くすべき「全力」とはどのようなものかなど、自問自答する日々が続いている。役職や立場は関係なく、常に自分が携わっている事業の社長だと思って、そこから生まれる無形資産、ひいては失敗という財産にまで想いを馳せる。

一方、高尚なことを書いてきたが、私は上記のような考えを「自分の本心からできなければサスティナブルではないし、人に伝わらない」と確信している。つまり、リーダーシップの形を腹落ちしながら、加えてオーセンティック・リーダーシップの要素も兼ね備えている必要があると言いたい。

そのような場面で、表現の仕方は性格によって異なるかもしれないが、それぞれの人が「パッション」を垣間見せることになるに違いない。

自分はさておき、こうした優秀な人材とのコラボレーションの機会においては、いつも刺激的なさらなる成長の機会やチャレンジの機会など、その先につながる事柄やその局面における問題解決のきっかけを作ってくれる。最近は、単に地頭が良いだけでもなく、若くして頭角を表しているのでもなく、こうした場面を作れる人材こそ「優秀」だなと感じるようになった。

これからも感じ方は様々な場面で変わっていくと思う。おそらくボージョレー・ヌーヴォーのようなもので、いつも歴史的な味わいを作ってくれるに違いない。

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