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パットナム/ギャレット 『上昇』 エピグラフ "what's past is prologue"をめぐって

パットナム/ギャレット『上昇』第1章の冒頭(エピグラフ)に以下の言葉が出てきます。

“. . . what’s past is prologue, what to come, in yours and my discharge.”

William Shakespeare, The Tempest

これはシェイクスピア『あらし』第2幕第1場の台詞、嵐に遭った船の漂着後、アントーニオがセバスチャンに対し兄から王位を簒奪することをそそのかすシーンです。ここまでに起こったことはお膳立て、ここからの主役はわれわれですよ、といった感じでしょうか。本書では、過去をふまえて、未来の行き先を決めるのはわれわれ(読者と筆者)の能動性なのだ、という趣旨が込められているはずです。

実はこの言葉(の前半)、ワシントンDCの米国国立公文書館にも掲げられています。エイトケンの彫刻作品「現在」(別名「未来」)の台座に刻まれていて、せっかくなのでヘッダー画像に置きました(Photograph by Mike Peel, licensed under CC BY-SA 4.0, trimmed to header image size)。過去の記録を保存する公文書館に、「過去に起こったことは(これからの)プロローグである」と刻まれているのは姿勢を正したくなる気がします。ちなみに彫刻はもう一つの作品「過去」と対になっています。作品「現在」と「過去」のWikiにリンクしておきます(External linksから、台座付全体像を見てください)。なお「過去」の台座に刻まれているのはシンプルに"STUDY THE PAST"(過去を学べ)です。この言葉もすごく重い…。


さてそれはそれ、訳者の私はいきなり1ページ1行目からシェイクスピアの言葉を訳さなければならなくなりました。しかもこれ、第1章のタイトルも兼ねていて、さらに本文中にこれをふまえた記述もあるのです。悩ましい。そういえば『われらの子ども』もプリテンダーズの歌詞にジョイスの引用で冒頭がはじまったけれど、かっこよくしないと出落ちというか締まらないしなあとぼやきつつ、いろいろ勘案してまあこんなところかな、という感じで訳をまとめたわけですが、一通り訳し終わってゲラになるころ、ああ、シェイクスピアの台詞なんだから、これまで名手たちがさまざまに訳してきたよな、ということに遅ればせながら気がつきました。

ということで、自分の訳文は存在する状態で、所属先の図書館にあるだけのシェイクスピア『あらし(テンペスト)』から該当部分を抜いてきたのでした。本学図書館にはこういうの、しっかりとコレクションがあって本当にありがたい。所蔵外にもまだまだ翻訳はあります。

英文学にはとんと縁がないですが、仕事ですれ違った沙翁作品の同一箇所を対比できる機会なんてもうなさそうなので、楽しんでいきましょう。刊行年順で。

貴方も、わたしも、妙な劇<しばゐ>を演ずるような廻り合せになったのですぜ、つい先刻<さっき>までの事件は其<その>前口上なのです。

坪内逍遙訳(1934年、中央公論社・新修シェークスピヤ全集37)

これまでのことはその前口上、これからが、君と僕との實演だよ。

豊田實訳(1950年、岩波文庫)

これまではほんの序の口、後は君と俺と二人の出突張りさ。

福田恆存訳(1965年、新潮社・シェイクスピア全集15)

今までのは前口上。これからが、あなたと私の役廻りです。

和田勇一訳(1965年、筑摩書房・世界文學大系75)

いままではその前口上、これからがあなたと私の出番です。

小田島雄志訳(1975年、白水社・シェイクスピア全集III)

その中で唯今まではプロローグ、これから先がわれわれの出番なんですよ。

木下順二訳(1989年、講談社・シェイクスピアVIII)

ここまでの幕はほんの前座の前口上、この先の展開こそがあなたの出番、わたしの役割。

大場建治訳(2010年、研究社・シェイクスピア・コレクション1)

みなさんさすがの名調子ですね。prologueは「前口上」が多そう。pro-logueですしね。なるほど。yours and my dischargeは出演感が出てますね(もっとも先行する文章が"And by that destiny to perform an act"なんですが。なおdischargeという言葉、普通に辞書を引くと訳語は難しいかも)。ここまではプロローグで、ここからはわれわれ、というからには、演劇っぽくしないとな、とは私個人も思って訳文を考えていました。

しかし坪内逍遙って、『小説神髄』に『当世書生気質』ですよね。初訳は1915年だそうでそこからだと100年前以上前ですが、かっこいいなあ、と単純に思いました。言葉の力すごい。

さて、私がどう訳したのか。名手たちには及びもつきませんが、せっかくなのでどうぞ本文でご覧ください。9ページ目、あと、文脈に合わせて訳し変えたのが26ページ目に掲載されています。



なお、版元の創元社ではこの冒頭の引用句「エピグラフ」の本を制作中で、関連するnote連載をされています。奥の深い世界で面白そうです。


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