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32歳の抜け感と秋の海を愛でる。

昨日の夜は久しぶりにクーラーなしでぐっすり寝れた。今日は朝7時半ぐらいに起きて窓を開けたら突然に秋がやってきた感じで、ひんやりと涼しい。なんか急やな。まだ真夏みたいな熱気の中汗だくで先週までランニングしてたのに。そんな流れで、なんか書こうかなと思う。

このあいだの三連休は久しぶりに隠岐へ帰り、海士と西ノ島で過ごした。だいたい半分くらいは仕事のような感じで色んなところを案内して回り、その道中やら船の乗り場で色んな顔に出くわしては挨拶する。僕も自然と島のモードというかリズムになっていくようで、羽田空港で合流した先輩をはじめ、今回のゲストご一行からも「羽田でお会いした時よりなんか抜け感があるよね」なんて言われたりする。

俺もう32やけど、こういうときにも抜け感という言葉は使えるのか。その意味はともかく、なんとなくこの抜け感という言葉の響きは気持ちが良い。

その抜け感と言えば、食べ物にもあった。今回は大先輩が会社のメンバーとはじめて隠岐に来るということで、隠岐牛に岩牡蠣にホテルのダイニングでのディナーと、できるかぎりのセッティングをした。そして、皆さん堪能して喜んでいただいた。お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。

しかし、最後にどの食事が一番美味しかったランキングを空港で聞いたところ、6人中2人が初日の昼に船の中で食べた弁当(寿司)を1位に回答。

まあたしかに、あそこの弁当は回転寿司だとは言え境港のネタを使っていて普通に美味しい。隠岐に住んでいた時の出張帰りの昼飯の定番だったが・・・ まあ食事にも肩肘を張りすぎない抜け感が大事なんだろうか。まあ初日の昼飯どうするか問題に頭を悩ませて出した回転寿司屋の弁当というアイデアだったので、努力が実を結んだということにしておこう。

というか、こんな時にも抜け感という言葉を使っていいのか。ねえ、抜け感。

そんなわけで今回は愉快なご一行の皆さんで僕も仕事とはいえ存分に楽しませてもらい、東京に戻ってきた。そして東京は秋。

そう秋になると海の色も表情も変わってくるんですよ。今回は行き帰りともに高速船に乗ったのでフェリーの甲板から日本海を見れなかったけど、そう言えば自分は秋の海が結構好きだったということを思い出す。

そんなことを思いながらiPhoneをスクロールしていると隠岐で過ごした5年間に取った海の写真が結構ある。 上の写真はどれも去年の11月28日の午後に撮ったもの。もう冬に差しかかった秋の終わりの頃。

なぜかこのときのことはよく覚えている。すごくよく晴れていて、やわらかい日が差し込んでいて、とても穏やかな海だった。もう冬がすぐそこで、しばらくこんな海はないだろうと分かっているから、いつまでも甲板に座っていたかった。そして写真をたくさん撮っていた。

やっぱり海といえば夏、ということに全く異論はなくて、青々とした夏らしい海も好きだし、春には島から巣立つ人を紙テープとともにフェリーで見送る瞬間も、隠岐らしい風景だと思う。

なんとなく秋の始まりは、ああ夏が終わってしまったなあという名残り惜しさに包まれ、秋の終りは冬の到来に向けてぐっと構えるようなところがある。ちょっと不憫というか、あまり目立たないというか秋の海にはそんなイメージがある。

隠岐の冬、日本海の冬は本当に厳しくて、その冬があるからこそ、3月くらいになって春の兆しが出てきたときの幸せはこの上ない。そんな時に眺める海は、まだ少し肌寒いけれど、あざやかな希望に溢れていてまぶしい。

でも、これから冬がやって来る予感に身を引き締めながら、やわらかい日の差し込む秋の海に包まれたあの時のことを、やっぱりよく覚えている。その日何か特別なことがあったわけではくて、一体嬉しいのか、寂しいのか、愛おしいのか、それさえもよく分からなくて、その全部が混ざっているようなあの感覚。

だから、これからも秋の海を推していこうと思う。でも、次に隠岐に行くのは冬かなあ。誰か秋の海を詠んだオススメの短歌とかあれば教えてください。

とりとめもなく抜け感について書いていたら、いつの間にか秋の海を愛でてしまいました。とりあえず明日は髪でも切りに行こう。32歳でも抜け感出るかな。

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