母と推し活
母の趣味をどれか一つ挙げるとするならば、真っ先に"推し活"の三文字が頭に浮かぶ。
僕だけではなく、家族や友達も間違いなくそう思うほど、母の人生には途切れることなく推しの存在があった。
学生時代は洋楽にハマり、10代にして友達と海外を飛び回って外国人アーティストの追っかけをしていたそうだ。
そして結婚して子供を3人産み、立派な主婦になってからも変わらず(むしろ子供が成人してからは一層)推し活に花を咲かせていた。
母は推しによってSNSアカウントを使い分けており、中にはフォロワー1000人を超えるアカウントもあった。
そうして出会った推し仲間達と県外のライブやイベントに参加したり、新潟在住にも関わらず定期的に東京でファン同士の交流会に参加したりなど、主婦にしては本当にアクティブに人生を謳歌していた。
そんな母がタイのイケメン俳優にどハマりし、推し活仲間達と一緒に遥々タイに行こうと数年ぶりのパスポートを取得した矢先、突然身体に不調が現れるようになった。
最初は全身の倦怠感程度だったが、次第に腰回りに痛みが生じ、仕事にも支障が出るようになった。
僕が物心ついた時から風邪一つ引いたところを見たことがないほど健康が取り柄の母だったので、諸々の不調を聞いた時はかなり心配したが、その状態でも大阪まで行って推し仲間と会ったことを嬉しそうに話していたので、当時の僕はどこか気楽に考えていた。
母の癌
しばらくしても倦怠感や痛みが良くならないので、病院嫌いの母を父と僕でなんとか説得し、近所のクリニックへ診察に行った。
そこで血液検査をしたところ、γ-GTPといった肝臓関係の値が基準値を異様に超えてることが判明。
アルコール類は一切口にしないが、お菓子については主食と言えるほど大好きなので、普段の食生活が原因だとその時は信じて疑わなかった。
そうしてエコー検査をすることになったが、まさかの直前で機械が故障し、急遽紹介状を持って総合病院へ行くことに。
そこで改めて血液検査、エコーをしたところ、何やら不穏なものが見えたのか、CTとレントゲン、そして肝生検といった精密検査をする運びとなった。
一泊の検査入院を経て、最終的な結果は2日後に分かると言われた。
結果が出るまでの2日間は本当に気が気でなかった。
気晴らしに母も含め家族で出かけたりもしたが、店先や観光地で苦しそうに歩く母を見ると、どうしても最悪な未来を想像してしまい、その度に僕も苦しくなった。
この2日間はただただ祈るしかなった。
そうして当日。
僕は仕事のため、母と父の2人で結果を聞きに病院へ。
祈りも虚しく、そこで「肝内胆管癌ステージ4」という診断を突きつけられた。
そして現実は想像よりもずっと残酷で、すでに癌が色んな臓器に転移しているため手術は出来ず、抗がん剤による延命治療しか手段がないため、余命は半年〜1年とのことだった。
抗がん剤治療については通院だけでも可能なため、闘病中でも基本的に自宅で過ごすことが出来るのが、病院嫌いな母にとってせめてもの救いだった。
医師から直接話を聞いた父はその場で大号泣したらしいが、当の本人である母はまったく泣かなかったそうだ。なんなら「家のことを全て任せて先に逝けてラッキー♫」とまで言っていた。
そんな母を見て、この人が闘病中でも変わらず推し活の日々が過ごせるよう精一杯サポートするのが僕の役目だと強く思った。
推しバンドとの奇跡
突然の癌宣告を受けた母だが、その一ヶ月後には新潟で行われる推しバンドによるホールツアーと、横浜で行われるタイのイケメン俳優達による初来日フェスというビッグイベントが二つも待ち構えていた。
そしてこの二つのイベントで、思いがけない奇跡が起こる。
まずは推しバンドについて。
そのバンドは僕も母も大好きで、よく2人でライブに行ったりもしていた。
そんな彼らがツアーで珍しく新潟に来るというので、当選した時は本当に大喜びし、ライブの日をずっと楽しみにしていた。
しかし、ライブの1ヶ月前に母は前述のとおり癌宣告を受けることになる。
癌の進行スピードは凄まじく、日に日に悪化する体調に母も弱気になり、ライブ観戦についてはほぼ諦めムードだった。
そこで僕は思い立って、そのバンドのボーカルの方にインスタでDMを送った。
そのボーカルはフォロワーが何十万人もいるような方なので、こんな長文を送ったところで当然見てもらえるわけがないと重々承知していたが、母のためにできる限りのことは全部やりたいという気持ちで一杯だった。
しかし、このDMを送った2日後。
まさかの出来事が起きる。
その日はたまたま母が一時的に入院をしており家にはいなかった。
深夜1時頃、眠りにつこうと電気を消して携帯を手に取るとインスタの通知が何件か来ている。
寝ぼけ眼で暗闇の中だったので差出人がよく見えず、「どうせ友達だろう」と軽い気持ちでそのまま寝ようと目を閉じたが、残影で浮かんできたユーザーIDに見覚えがあった。
あれ、、ひょっとして、、、?
速攻で飛び起きて部屋の明かりをつける。
そして恐る恐る携帯を見返すと、その差出人は紛れもなくボーカルの方だった。
リアルに口から心臓が出るかと思った。
早く返信しなくては!
震える手を必死で抑えながら、何とか返信を送る。
内容としては、体調が急変しなければライブは大丈夫だろうと主治医から言われていることを伝えた。
するとボーカルの方もすぐに返信をくださった。
神様と会話をしているようだった。しかも親切丁寧な返信まで頂けて、こんなに言葉が出ない気持ちになったのは人生で初めてだった。
足りない語彙力で精一杯の感謝の意を伝え、ひとまずボーカルの方の返信を待つ形となった。
それから2日後、退院した母が家に帰ってきた。
母が退院するまでは一連の件は内緒にしていたので、病気になってから日課になっていた母のマッサージをしている最中にサプライズで打ち明けた。
一連の話を聞いた母の目には涙が浮かんでいた。僕は生まれて初めて、母の泣いている姿を間近で見た気がした。
この時点ではまだ会えるかどうかの返信が来ていなかったので、二人して「会えなくても返信もらえただけで十分過ぎるよね、、!」と何度も話した。
そしてその日の夜11時過ぎ。またもや突然にインスタの通知が鳴った。
今までの人生で一番変な声が出てたと思う。
脊髄反射で部屋を飛び出し、階段を駆け下りて母の寝ている寝室まで猛ダッシュした。
会えることを伝えると母は号泣して、「なんて良い人なんだ、、、」と二人で何度も話した。
あの時DMを送ってよかったと、心の底から思った。
ライブ当日
待ちに待ったライブ当日。
母は朝から体調が優れずひたすら吐き続けていた。
何か物を口に入れるとすぐ吐いてしまうような具合で、二週間ほど前から始まった抗がん剤治療の副作用がよりによってこの日に強く出始めたようだった。
ライブ中何かあったらどうしよう。
メンバー達に会える喜びもあったが、正直頭の中は不安だらけだった。
処方された吐き気止めがようやく効き始めた15時過ぎ、なんとか吐き気も治まったので僕の運転で会場に向かう。
車内では母の大好きな曲を流しながら、気持ちをライブモードに切り替える。
朝から吐き続けてグッタリしていたが、なんとか気分も上がってきたようで少しホッとした。
そうして1時間弱運転し、無事に会場に辿り着いた。
トランクから車椅子を取り出し、そこに母を乗せる。
今日は父がいないので、僕がしっかり支えなくては。身を引き締めて、車椅子のグリップを強く握った。
入場時間まで1時間くらいあったので、母の推し仲間達が会いに来てくださった。
母の病気については事前に知っていたようで、合流するとすぐに身体の心配をしてくれた。
ツアートラックの前で写真を撮り、談笑をしていたらあっという間に入場時間が近づいてきた。
僕達は車椅子席での観戦のため、入口のスタッフに声をかけ、誘導されるままに席へと向かう。
そうして案内されたのがサブステージ目の前の神オブ神席。
2メートル先にはステージがある近さだった。
その日、車椅子の方は他にいなかったので、僕達の席だけ明らかに浮いていた。VIP待遇さながら。
そこから観たライブは、感無量としか言いようがなかった。
途中、ボーカルの方が僕達の目の前に来て歌ってくれた場面があったが、その時、車椅子の母を見つけて確かに一瞬うなずいてくれた。
これまで母と色んなバンドのライブに行ってきたが、間違いなくこの日が人生最高のライブになった。
アンコールを含め、あっという間に2時間30分近くのライブが終わり、退場のアナウンスが流れる。
すると、僕達のところにスタッフの方が来てくださり、「お客さんが全員退場されてからご案内いたします」と伝えられた。
ライブだけで十分過ぎるほど良い思いをさせてもらったのに、この後会えるなんてそんな贅沢があっていいんですか、、?
あまりの緊張と恐れ多さで、正直生きた心地がしなかった。
そしてスタッフの方から再び声がかかる。
「こちらへどうぞ」と案内されたのは、楽屋スペースへと繋がる扉の目の前だった。
母と二人でそわそわしながら5分ほど待っていると、ついにその扉が開いた。
扉の向こう側から、メンバーの方々が手を振りながらこちらに歩いてくる。
あまりの神々しさに、僕と母は言葉を失ってしまった。
まずはお礼を言わなくては。真っ白になった頭で必死に言葉を探していると、ボーカルの方から「え、お母さん若くないですか!本当にお母さん?」と笑顔で話しかけてくださった。
この時点で母は大号泣。
そうして車椅子の母を取り囲みながらメンバーの皆様とお話をさせていただいた。
ベースの方は、僕の目をまっすぐ見ながら「DM見たよ」と言ってくださり、ギターの方はわざわざ楽屋からピックを持って来ていただたようで、母はそれを手渡しで受け取っていた。そしてドラムの方はその一部始終を仏のような温かい眼差しで見守ってくださっていた。
10分ほど色んな話をさせてもらった後、母と僕の2人分のサインを書いていただき、メンバーの皆様と写真まで撮らせていただいた。
コロナ禍もあり握手については半ば諦めていたので、こちらからは何も言わないでいたところ、なんとボーカルの方から「ちゃんと消毒すれば大丈夫だから!」と言っていただき、最後にメンバーの皆様と握手をさせていただいた。
細くて長い指先からは想像できないほど分厚くて、そしてビックリするくらい温かい手だったのを今でも覚えている。
握手を終えて、最後に出来る限りの感謝を伝えると、
「グッズいっぱい買ってくれればいいから!」と笑いながら言ってくださり、和やかな雰囲気でお別れをした。
後日、母は自身の闘病日記にて「確実にこの日は癌が消えてたと思う」と綴っていた。
メンバーとの写真に映る母は、癌なんか全く感じさせないほど幸せそうに笑っていた。
推し俳優との奇跡
前述のライブの一週間後、母は横浜で開催されるタイの俳優達による大規模フェスに参加するべく、家族の同伴で新潟から横浜へ向かった。
推しの初来日イベントらしく、癌になる前から母はこの日をずっと楽しみにしていた。
いくつかある母の推し活アカウントのうち、このタイ関係が一番フォロワーが多く、その界隈の中で母はある意味有名人だったようで、どこかの国の王女様さながら、本当に大勢の方が車椅子の母を見舞いに来てくれた。
その推し仲間の一人が、まさかのサプライズを用意してくれていた。
見せてくれたのはなんと、母の推しによる自撮りの応援メッセージ動画だった。
インスタのフォロワーが400万人を超えるほどの世界的アイドルが、iPhoneで自撮りをしながら母の名前を呼んでいる。しかも日本語で話しかけてくださっていた。
その後はタイ語で、
と話しかけていた。
この動画は母の推し仲間があらゆる手段を使って実現したもので、母の推しとそのマネージャーは母の病気のことを知ってすぐに快諾してくれたそうだ。
家族みんなで、この動画を擦り切れるほど見た。
別れ
2023年6月8日。
癌宣告を受けてから約1年が経とうとしていたその日に、例の推しバンドのライブDVDが届いた。
僕と母が行ったツアーのファイナル公演が収録されたDVDだ。
母と夕飯を食べ終えた後に、リビングで一緒に見ることにした。
見始めて30分ほど経った頃、隣にいる母の瞼が何度か長い間閉じていることに気付く。
僕が「眠いの?」と尋ねると、その度に母はゆっくりと目を開け「眠くないよ」と答えるが、その様子はどこか感情を失っているようで、僕は何となく違和感を覚えた。
本人は眠くないと言い張るが、明日また一緒に見ればいいだろうと思い、DVDを途中で停止し、その日は母を寝かせることにした。
結局、それが母と観た最期のライブになってしまった。
翌朝、母はあまり眠れなかったようで、朝からかなり調子が悪そうだった。
そしていつもと明らかに違ったのは、会話があまり上手く出来なくなっていたことだった。
喋ることは出来るが、何となく感情がこもっていないような感じで、そして時々同じことを何度も繰り返し喋っていた。
癌になってからこんな症状が出たのは初めてだったのでたまらなく心配になり、父が急遽仕事を休んで母を病院へ連れて行くことになった。
僕は、出勤する直前まで母の肩をマッサージしていた。するとその時、母が唐突にボソッと「そろそろかな」と呟いた。
その言葉を聞いて、僕は否定することができなかった。
何も言えずに母の肩を軽く叩くと、いつものように「いってらっしゃい」と母は小さく言った。
言葉にしたくない何かの予兆を感じながら、重い足取りで僕は職場に向かった。
ほぼ何も手につかない状態で午前中の仕事を終わらせ、休憩時間にスマホを手に取ると、病院にいる父から何件か着信が入っていた。
折り返し電話をすると、電話口の父の声は震えていた。
病院に母を連れて行ったところ、主治医から「明日亡くなってもおかしくない状態」と言われたとのことだった。
会社を早退し、急いで病院に向かう。
病室に着くと、日常と何ら変わりのない様子の母がいた。危篤状態を想像していたが、ベッドに座って普通に父と会話をしている。ただ、朝感じたような会話の違和感はいまだに続いていた。
明日亡くなるような人間には到底見えなかったが、主治医によると母の状態は肝性脳症と言われるもので、癌によって肝臓がほとんど機能しておらず、毒素が分解できずに脳にまで毒が回ってる状態で、言わば手遅れのようなものだった。
そんな状態の母だったが、会話は支障のないレベルで出来ていたので、家族みんなで母を囲みながらしばらく一緒に過ごした。
その日の夜は、コロナの関係で面会できない病棟で母は一晩過ごすことになったので、みんなで母を見送って病院を後にした。母が今夜持ち堪えれば、次の日からは面会可能な病棟に移してくれるとのことだった。
しかし次の日の朝、病院から電話があり、母の呼吸が危ないので今すぐ病室に来てほしいと告げられる。
顔も洗わずに家を飛び出し、家族みんなで病院へ向かった。
病室での情景は昨日のことのように鮮明に覚えている。
病室に着くと、ベッドで仰向けになっている母が見えた。
口を大きく開けて、いつ止まってもおかしくないほどゆっくりとした呼吸を、全身で一生懸命している。
僕たちのことが見えていたかどうかは分からないが、視線は天井を向いていた。
今にも消えそうな小さい火を取り囲むように、家族みんなで泣きじゃくりながら声をかけ続ける。
「最高の母だったよ、、!」
「向こうでも元気でね」
「今まで本当にありがとう、ありがとうね」
するとその時、母の目から一筋の涙が流れた。
僕たちの声が届いたのだろうか。
そうして母は最期に全身で大きく息を吸ったのち、ピッタリと呼吸を止めた。
6月10日午前10時18分。
遠く晴れ渡った空に母は旅立っていった。
母の最後の一呼吸まで見届けられたことは、送る側にとってこの上ない幸せだったと思う。
病室で亡くなってからすぐに、母の体は我が家に運ばれた。家が大好きだった母にとって、こんなに早く帰って来れたのはさぞ嬉しかっただろう。家で最期を迎えられなかったとはいえ、本当にギリギリまで自宅療養が出来たわけだ。
そうしてすぐに葬儀屋が家に来て色んな段取りを行い、通夜は2日後、葬儀はその翌日に決まった。
喪主である父は感傷に浸る暇もないくらい忙しそうにしていたが、僕も職場や友人への連絡等で気付いたら深夜になっていた。
もう何もやる気力は残っていなかったが、一つだけ絶対にこの日にしようと決めていたことがあった。
それは、例のミュージシャンに感謝を伝えることだった。
上記のメッセージをインスタで送ったところ、数時間後に既読がついたが、しばらく待っても返信はこなかった。
感謝を伝えられるだけでも十分過ぎると思っていたので、既読がついたことに心の底から感謝の気持ちしかなかった。
しかし、次の日の深夜2時52分に、まさかのお返事をいただく。
涙でぼやける文章を必死に読んだ。なんて素敵で温かい言葉なんだろう。こればっかりは母に見せることが出来ないので、母の分までしっかりと言葉を受け止めた。
そして翌朝、このDMを紙に印刷して母の棺に入れる準備をしていた時、他にも何か入れてあげようと家中を物色していたところ、母がよく使っていた収納バッグから見慣れない手紙が見つかった。
手紙は4通あり、それは母を抜いた家族の人数と一致していた。封筒には一人一人の宛名が書いてある。どうやら僕達に内緒で、母なりの遺書をしたためていたようだ。
封筒の裏面には「5月15日」と記載されているので、亡くなる1ヶ月ほど前に書かれていたことになる。ちょうどその前日の14日が母の日だったので、ランチにパスタを奢ったのを覚えている。まさか次の日にこんな手紙を書いていたなんてまったく想像していなかった。
僕宛の手紙にはこう記されていた。
家族に向けられた母の手紙はどれも温かく、そしてどこまでも母らしい文章で綴られていた。
家族みんなで泣きながら手紙の返事を書き、それを母の枕元に添えて、母は自宅から出棺した。
葬儀の会場では、母が好きだった音楽を読経の時間以外ずっと流していた。
病気になる前から自分の葬式で流して欲しい音楽の話をよくしていたので、改めて母らしい葬儀になったと思う。
式場では何曲かリピートしていたが、棺に別れ花を入れる際には例のバンドの曲が流れた。あの瞬間が無音だったら到底耐えられなかったと思う。何度も聴いたあの歌声と歌詞が、優しく背中を押してくれた。
葬儀を終え、火葬場にて最後のお別れをした。
奇しくもこの日は、父と母の31回目の結婚記念日だった。
後日、母のSNSアカウントにて訃報を伝えると本当に沢山のお悔やみをいただいた。
コメントやDMは100件を超え、母とのエピソードを丁寧に話してくださる方も大勢いらっしゃり、本当に愛されていたんだなと誇らしく感じた。
56歳といういささか短い生涯だったが、充実という他ない時間を過ごしていたと改めて思う。
母の死を通じてまず思ったのは、やはり人生にはいつ何が起こるか分からないということ。10歳下の嫁に先立たれた父にとってはそのことがより一層重く感じられていると思う。
そして、親の死というのは子供の人生や考え方を変えるほど大きなエネルギーを持っているものだと感じる。
良い意味で、もう私だけの人生ではなくなったのだ。これからは母の分の縁もいただいて、しっかりと人生を全うしようと誓った。
もちろん今は癌が憎いけど、事件や事故で亡くなるのとは違い、癌という病気はある程度死への準備が出来る。
この1年間は間違いなく宝物のような日々だった。
こうして書いてみると、まだまだ他にも書きたいことが山ほど浮かんでくるが、キリがないのでこの辺で。
母さん、ここまで頑張ってくれて本当にお疲れ様。
やっと楽になれて、今頃思う存分推し活できてるかな。
カフェとかライブにも二人で沢山行って、年の離れた親友のような付き合いができて本当に幸せでしたよ。
そっちに行ったら、また色んなところに出かけましょうね。
この記事が受賞したコンテスト
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