フッサールのデカルト的省察(その3)

 まず現象学にとって他我問題は死活問題であることをおさえておきたい。
 先験的領域というバーチャル空間においては、経験的私の存在は判断中止されるんだけど、「かのような経験」として先験的自我の時間・空間が内部性としてあるわけだ。この先験的自我から出発して「自我の本質」に到達するには、想像によって自我を様々な他我に置き換えて、普遍的自我にしていく必要がある。つまり「他我」は第二段階の形相的還元にとって必要不可欠のものになる。
 また、他我とは他者の志向性でもあるから、自己の志向性が他者の志向性を構成することがなぜ可能なのかが解明されなければ、志向性の本質を解明したことにはならない。
 以上の二つの理由で、他我問題が解決されなければ先験的現象学は崩壊することになる。探究の趣くまま他我問題をとりあげてるんじゃないんだな。
 「感情移入」も「連合」と同様、自然的態度にもとづくヌルい概念であって、フッサールはあくまで「志向性」という現象学的還元の成果に徹して、それらの概念をリメイクしている。既存の概念に一切頼らず「志向性」だけで「他我」を構成する論理は瞠目すべきものがある。
 単純化して整理すると、先験的自我の仮想空間の中に、部分空間として他我の存在しない世界を仮想するわけだ。すると、その部分空間を構成する自我は、私の自我ではない。なぜなら部分空間であって全体空間ではないからだ。それが他我だという論理である。
 アッ!と驚くどころかエッ?と言いたくなるような論理だけど、つまり他我とは他我のいない世界を構成する自我である、ということになる。
 まあ、これはちょっとあまりにも単純化しすぎてるんで、興味のある方は本文を参照していただきたい。だけど入り組んだロジックをまとめてみると、要するに他我を他我ぬきで構成してるんだな。あらっぽくパラフレーズすると、他我の存在を抹消する自我はもはや経験的自我ではなく本質的自我だから、通常の意味での「私」ではなく普遍的自我として他我でもあるということだ。
 どういうことか?
 つまり他我についてのフッサールの分析は他我の存在を証明するものではなく、経験世界において他我がどのように与えられるかを分析したものだ。
 その分析によると、他我は私に対して根源的明証として呈示されることはない。私に対して根源的に呈示されるのは感覚された物体であり、他者の身体とその運動でしかない。
 にも関わらず他我の存在を確証しているのはなぜか?
 そこでフッサールが持ち出すのが、志向性の変様という概念だ。経験世界における「因果関係」は、先験的領域では「動機づけ」となる。「動機づけ」という用語は心理を連想させるのでイケてない感じがするんだけど、それは自然世界における「因果関係」を還元したものだから心理ではない。だからもっとマシな造語にすればいいと思うんだけど、フッサールはあまりそういうセンスがなくて「動機づけ」「根拠づけ」などと古い言葉を転用するもんだから革新性が際立たないんだな。
 で、先験的領域にも経験的領域の因果関係に対応した「動機づけ」がある。ある意識対象Xが意識作用によって構成されたとき、それを原因として他の意識対象Yが構成されるんだな。つまり根源的呈示Xを原因として間接的呈示Yが結果として生じる。例としては知覚対象の裏面への予期とか、現在に対する過去の想起などだ。そうした間接的呈示が根源的呈示に対して「地平」を形成することは既述したとおりだ。
 フッサールはこの間接的呈示をさらに分類して、根源的呈示によって充実されるものと充実されないものに区分している。例えば物体の裏面はひっくり返してみれば根源的に呈示され充実されるんだけど、想起による過去は根源的呈示として充実されることはない。裏面をひっくり返すように過去が現在に戻ることはないんだな。
 この根源的呈示によって充実されない間接的呈示が「志向性の変様」だ。例えば想起においては過去が現在の変様態になる。
 フッサールの言わんとするところを要約すれば、他我が間接的呈示であるというのは、自我にとって過去の自我が間接的呈示であるのと同様なんだな。それは根源的明証によって充実されない。
 過去の自我が現在の自我の変様態であるのと同様に、他我は他人の身体という根源的呈示の変様態なんだ。
 知覚のような根源的呈示でないにもかかわらず、なぜ過去の自我や他我の存在について人は確証しうるのか? それは間接的呈示として根源的呈示が原因(動機づけ)となっているからだ。
 過去の自我は現在の自我という根源的呈示から間接的に派生した変様態であり、他我は他人の身体と運動という知覚対象としての根源的呈示から派生した変様態というわけだ。この場合、他人の身体と他我との関係は、自分の身体と自我の関係の類比として成り立つことになる。
 あくまで以上は単純化して要約したもので、フッサールの分析はもっと複雑精妙なんだけど、分析のしめくくりとして謎を提出している。
 フッサールは自分が分析したにも関わらず、他我が間接的呈示であることに疑問を持ってるんだな。それは根源的呈示ではないかと。彼がそのような疑問を持つのは当然であって、もし他我が根源的呈示でないとすると、客観世界もまた根源的呈示ではなくなる。この謎が解決されない限り、客観世界は間接的呈示にとどまることになる。

 

 この謎を解くためにフッサールが持ち出すのが、間接的呈示の根源性だ。つまり間接的呈示は根源的呈示と結びついていて融合しているというんだな。知覚が超越的であるというのはそういう意味だ。つまりあらゆる知覚は知覚されない間接的呈示を伴わない限り根源的明証にはならないってことだ。
 もしこれを否定するなら、根源的明証の意味それ自体が成り立たなくなるわけで、「われ思う、ゆえに我あり」という根源的明証は明らかに間接的呈示としての意味を伴ってるからこそ成り立っている。単なる知覚対象としての音声(あるいは指向対象としての聴覚映像)のみでは無意味な根源的明証になるんだな。ハイデガーのいう道具存在の「として」構造も間接的呈示と根源的呈示の等根源性が背景にある、と私は思う。要するに「根源的明証」という言葉それ自体が、意味という間接的呈示を伴ってるわけだ。
 こうしてみると、世界の客観性も他我の根源性も、すべて根源的呈示と融合した間接的呈示の根源性にあるのであって、それを否定したら他我だけでなく世界とともに現象学も消滅するんだな。だって意味が消えるんだから、残るのは直接的現前としての無意味な知覚経験でしかない。それが根源的明証だと言っても無-意味なんだな。間接的呈示が根源性であるというのは、そういうことだ。 
 他我問題についての現象学的考察が明らかにしたことは、まず客観世界があって、その中で自我と他我が存在するのではなく、他我に対する志向性によって客観世界が形成されるってことなんだな。
 つまり他人の身体という知覚対象の根源性だけでは客観世界は成り立たないわけだ。そうした知覚対象としての他人の身体に伴う他我という間接的呈示が根源性として志向されない限り、客観世界は形成されない。
 なぜなら、他我の間接的呈示としての根源性が否定されるなら、他我固有の時間・空間もまた否定されるからだ。他我という間接的呈示が根源的であるということは、他我にとっての時間・空間が自我にとっての時間・空間と同一であることを意味するんだな。

 

 自分で要約しながら面倒くさい議論だと思うんだけど、フッサールは「志向性」概念だけですべて説明しようとしてるし、また説明できてるんで、どうしても面倒くさくなるのは仕方がない。ハイデガーは師匠が分析しつくしたんで、他我問題をあっさり「共同現存在」で片付けてるんだけど、「共同現存在」があまりイケてないのはフッサールの精妙な分析を省略して、単に現存在が本質として共同現存在だと断言してるだけだからだ。フッサールの分析をふまえていれば、「共同現存在」が他我だけでなく、間接的呈示としてのシニフィエの根源性にも関わってることが明瞭になるはずだ。つまり言語と他我は間接的呈示の根源性として同じ問題になる。他者が自分とは別の実在であるにも関わらず自分にとって根源的なものとして現われるのは、言語が自分とは別の実在であるにも関わらず自分の思考として現われるのと同じことなんだ。
 まあ、それは結果的に現存在が共同現存在だってことになるんだけど、なぜそうなるのか、ハイデガーは説明不足だと思うね。世界の解釈についてハイデガーは現存在中心だけど、フッサールは他我中心という違いがあるようだ。

 

 客観世界が他我や自我に先行するのではなく、他我への志向性が客観世界に先行するという分析結果は、なぜ世界が民族・国家に分裂するのかをうまく説明できる。つまり人が客観世界を形成するのは、あくまで親や隣人という他人の身体の根源的呈示から派生した間接的呈示として他我を指向していることに根拠があるってことなんだな。このことはペットの猫や犬が擬似的人格対象として志向されることもうまく説明できる。だけど間接的呈示の根源性としての他我は本質であるがゆえに人類共通であって、それが他文化の理解や言語の翻訳可能性の基礎になってるわけだ。
 フッサールはこうした分析結果をふまえて、現象学を新たな形而上学として打ち出してるわけで、それなりの説得力がある。
 そりゃ確かになんだかんだ言ってみても、デカルト的コギトの根源的明証が現象学の基礎になってるんだから、フロイトや言語論的転回によって自我の根源性が否定された現代において、そうした思想はオワコンじゃないかという批判は成り立つだろう。
 だけど私見では、フッサールが探究の基礎としたのは、デカルト的コギトではなく「根拠づけ」だと思う。絶対的懐疑の中で疑うことのできない根源的明証とは、「根拠づけ」への指向であり、それは「志向性」を志向することなんだな。
 その「根拠づけ」を否定するなら、一切の理論的妥当性も失われることになる。だからフロイトの理論的妥当性を「根拠づけ」によって現象学的に検討することも可能なのだ。成功したか否かは別として、サルトルの実存的精神分析は、それを狙ったものだと思う。
 もし真理があるとしたら、それは探究を続行することの中で暫定的にしか存在しないであろう。フッサールも先験的領域は無限の広がりを持つと言ってるわけだから、自然科学における真理の暫定性がそのまま先験的領域にもあてはまると思うね。経験世界と並行してるんだから。
 人間が正気を保てるのは探究を続けるかぎりにおいてであって、探究を中止すると際限のない懐疑という虚無の狂気に落ち込むほかはない。
 以上のとおり「デカルト的省察」の読解から明らかになったことは、間接的呈示の根源性が現象学のクリティカル・ポイントだということだ。その根源性が否定されれば、現象学は崩壊する。同時に他のあらゆる理論のもつ妥当性も崩壊する。それは明らかだ。

 

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